クラゲの自由
自由は基本ですな。自由があるからこそ、抑制や様式に意味が出てくる。むしろ、そのために「自由」があると言った方がいい。自由だけが存在するとなれば、人間はクラゲのように気楽に漂っているだけです。
「自分を自由に表現したらいいのよ」なんて、よく耳にする甘い言葉のひとつですね。自分を表現するとは自分の内を晒すことですね。これって、基本的に「下品」な行為です。「見せて」って言われもしないのに、自分の内を見せること自体「悪趣味」なことです。だから、古人は「芸」という縛りを考え出したんでしょう。約束事や様式というものを設けて自分の内なるものがそのまま露骨に現われないように細心の注意を払うわけです。そのまま表出されない、ひとつの形式をとおして提示される。一見辛気臭いようですが、むしろ「内なるもの」は明確さ、鮮やかさを増す。
いい「芸」とはそのようなものでしょう。
自由を絶対的に前面に押し出すと、自我が直接表に出て来がちですね。なまの自我は決して美しくはない。第一にそこに気付くデリカシーが、表現者本人に必要なわけです。それがなければ、「趣味」か「若気の至り」の世界です。バルチェスなんぞ、「個性というものを捨てなさい」とまで言っている。これはすごいことですね。個性しか頼りとしない昨今の画学生は、過去の巨匠を一顧だにせず、現代の売れっ子作家に、無意識のうちにも身をすり寄せていく。指導者もそれを奨励している節がある。「芸」というものが粉砕され、時代に迎合した「受け」がすべてとなる。それらを総称して「サブ・カルチャー」などと呼ぼうが、そこに表現されたものの深浅の度合いはじつにみすぼらしい。「クラゲの自由」を得たサブカルチャーの闘士達は、メディアという化け物の力を借りて都市の上空を浮遊していく。現代の景色がそこにある。それがいいか悪いかなど、言ってもしようがない。
「恥」というものが無くなりましたね。人や周囲に対する恥なんぞはどうでもいい。自分に向った恥は実に貴重なものです。夥しい生命を喰らって肥え太り、何ひとつまともなことができていない自分を見つめた場合、そこに大いなる「恥」がある。おめおめと生きているという感覚は前世代の人達までは、だれにでもあった感覚ではないだろうか。そこから「無私」や「美意識」が生まれていたように思う。民主主義が人権を唱えたと同時に、人々はかくみすぼらしい自分を、どうしても主人公におかざるを得なくなった。自分で自分の人生を造らざるを得ない。当然、「居直り」モードが発生する。なんとかしなくては、などと悩むこと自体、経済効果ゼロの言葉であって見栄も悪い。「健康で長生き」が最大公約数の如きスローガンとなる。見るからに健康そうだが、その顔に何の恥もなく、その装いに何の美的意識もない高齢者達が、街に溢れる。彼等の殆どは自らにしか興味がない。リタイアは「責任からの開放」と考えている。むしろより重要な責任が課されていることに気付かない。老人は若い人への「教科書」である。身をもって晒すこと。人間の美も醜も、人生の虚も実も、その姿に消し去ることができない形で表われているのである。「どう死んでいくか」をしっかりと演じる仕事が残っている。美も醜もわしには関係ない。残りの日々、できるだけ楽しく生きにゃ・・・と、恥知らずの顔で闊歩する。大量のクラゲの発生である。後に続く世代の「喘ぎ」も聞こえず、何を残すのでもない。クラゲの自由を謳歌し、都市の上空をこれ又浮遊する。
平成21年8月20日
吹雪の夜に
(司馬遼太郎風に言うなら)昭和二十三年正月の風景である。
夜。ひどく吹雪いている。ほとんど視界が利かなくなってきた。若狭のこの時期、雪は深い。元旦から次第に吹雪いて、ニ日の夜、この時間に堤を歩く者は、ほとんどいない。男は黒い厚手のオーバーコートに、フェルトの帽子。土地の人間ではない。背には大きな帆布のリュック、両手に提げ荷を持ち、前のめりにほとんど判別がつかなくなった道らしきところを進んでいる。駅から1時間は歩かなければならない。先程から何度も堤の傾斜をすべり落ちて、コートの裾は雪の粉で真白になっている。ただ歩様は力強い。待つ者達への責任と一刻も早く顔を見たいという一念が、男の背中を大きく見せている。
男は今朝大阪を出た。年末まで奔走が続き晦日に家族の寄宿を訪ねることはできなかった。戦後の混乱と復興に湧き返るような大阪での日々は、男にとって厳しいものであった。空襲で焼け落ちた自宅と工場の土地を維持する気力がなかった。二束三文で売り払って、当座の生活資金とし、その間に工員としてどこかへ就職する算段でいる。土地代金の一部が入るのを待って郷里の小浜の親戚の納屋に身を寄せる妻と5人の子供達にほどほどのみやげを買い揃えるのに晦日一杯を費やした。
背中のリュックの重みは家族の喜びの重みであった。両手は家族の希望を受け止めるかのように提げ荷でふさがっていた。息も切れ切れにようやく集落らしきものが見えてきた。小浜海岸から一理種川沿いに上った寒村である。堤から見下ろす家々の灯は吹雪の向こうにまばらにかすかに見える。ようやくその納屋が視界に入る。もどかしくたまらなく男は堤の斜面を滑り降りる。もうコート全体といわずリュックも提げ荷も顔までも雪まみれである。ひとりでに満面笑みがあふれる。納屋の重い引き戸の前に立つと、中には何かの気配を感じたらしい子供達の敏捷な動きが聞こえてきた。男はもう一度ニヤリと笑い勢いよく戸を開けた。
この後にくり広げられる団欒の場面は レモン色とオレンジ色に彩られ、家族全員はそれまでの重苦しい現実から宙を舞うような恍惚たる至福の世界へ、しばし・・・。一歳に満たない私はそこでは母の腕の中で、一体何が起こったものかと、眼をキョロキョロさせていたことであろう。岩ア家の新しいスタートの貴重なシーンである。
その後ほどなく七人の家族は大阪へ戻る。七人の大家族は狭い家の中で貧しい生活を送り、常にお金が元のいざこざが絶えなかった。女一人男四人の兄弟が成長していくとそれぞれ自分なりの生活を作っていった。それこそ五人五様で、バラバラと家から離散していった。残された老夫婦は時とともに会話もなくなった。父親が事故に遭ってから、夫婦仲はそれなりのものに戻ったが、兄弟の間の反目が決定的に家族を分解してしまう。
どう考えても小浜のあの吹雪の夜以上の「幸福感」は以後、その家族には訪れなかった。最も苦しい時に、最も幸福な時間があったとは皮肉なものである。極端に言えば、あの吹雪の夜が全てだった。あの夜の思い出さえ心に収まっていれば、岩ア家の一員であった意味がある。ただし私は何も記憶していない。父と母が時折語っていた話から自分で作り上げたイメージである。しかしとても大事なイメージと思っている。無意識のうちに私を支えつづけてきたように思える。
人生は綿々と回顧するには長すぎる。いくつかのエポックは一つのシーンに集約されていくのではないだろうか。それは現実のそのものから心の中で「絵画化」されてしっかりと収まっていくようだ。出会った人々の印象も同様で、大切な人は心のシャッターでとらえた一枚の写真となって「アルバム」に残っている。四十才で夭逝した刎頸の友は、環状線の車内のいちばんはじの席でトレンチコートをはだけてこちらをみつめ、ニヤッと人なつっこく笑っている姿でよみがえる。母は小太りのエプロン姿で買物かごを提げ、ゆらゆら歩く姿で表われる。父は空元気の人だったが、本質的に脆弱な性格だった。「長男のおとんぼ」の典型的な人だった。しかし、私の心には、あの吹雪の夜ぐいぐいと雪だらけになって歩む雄々しい「背中」として収まっている。それで十分である。
平成21年6月6日
ヤニ色の天井
猫の毛と絵の具でコテコテになったカーペットの上にゴロンと寝転がる。すべてが寝静まる。私の時間が今夜も始まった。
手術の後遺症で下腹がゴロゴロしているが、概ね快調だ。みんなからプレッシャーをかけられ滅本へ追い込まれている貴重なタバコに火をつける。もう今夜は描かない。仰向けのまま煙をフワッと吹き上げる。白い龍のようにくねりながら「ヤニ色の天井」へ消えていく。さきほど入れたコーヒーの冷めた残りをスッとすする。うまい。幸福。今、ここで幸福。この煙を見ていられること自体で幸福。じっとこのヤニ色の天井を見ていることで幸福なんて。
時間がその本来の正しい「緩やかさ」を取り戻す。時計の時間から離れて純粋に移ろっている。過去も未来も溶け合ってひとつの大きな表情になって、優しく私を運んでいく。時間がどんどん透明になっていく。私は心地良く全くのひとり。
そんな「透明な時間」の中に、次第に人々が見えてくる。今まで私に言葉や微笑を与えてくれた人々。共に生きて共に歓び悲しみ憤慨してくれた人々。そんな人達が注ぐ「心」が目に見えない雨のように、突然ヤニ色の天井から降り注いでくる。音もなく素敵に気持ち良く私の身体に注いで、浸み入って、放射線のように突きとおっていく。ちょっと疲れ気味の心は魔法を受けたように軽くなって、その度に自分の薄い一皮がはがれていく。何と幸福な人生よ、と改めて感じる。私にとって最も大切な儀式のようなものかと思っている。
「生きて、生かされていることに感謝」などという感慨ではない。すべてを楽天的に四捨五入して納得しようなどとも思っていない。不満や不安は山ほどある。あってあたり前と思っている。今まで充分罪を犯してきたし、これからも少々は犯すつもりである。街中を歩いていて、喧嘩腰になることもよくある。結局つまらぬ理屈をこね廻しながら、「賢さ」からは程遠い人間である。仕方がない。悟りから離れたところでじたばたしている「蒙昧の徒」を自認しているのだからしょうがない。
そんな訳で、昼間は少々殺気立って生きている。唯一、ひととき、小銭稼ぎや絵から離れて、ボンヤリ「ヤニ色の天井」に煙をくゆらせて安直に「まともな人間の心」に戻ろうとしているのだろう。いかにもいい加減な私の性格にはぴったりである。
平成21年4月18日
追悼 高野卯港君
十月二日午後4時、君はこの浮き世に別れを告げた。膨大な数の作品を置いて実に潔く。現世で見られる夢と引き換えに、つまらぬ煩いのないあの世へ。最後、もうちょっと粘ってもよかったと思うけど、君にしてみれば何年も何十年も必死に粘ってきたんだよね。生者が口はばったいことを言うもんやないね。
九月の中頃、胸騒ぎがして君の家へお邪魔した。力なく横になった君と、ほんとにとりとめもなく話したね。何を話したのか、実はなんにも覚えていない。
もう三十五年も経つだろうか。団塊の世代の吹き溜まりのような美術研究所に居合わせた僕たち。大学の暇に通っていた僕と、勤労青年で絵描きを目指していた君とは、お互いまるで異質な存在で、顔は知り合っているものの口は利いた事もなかった。僕なんぞは本当に嫌みな生意気な若造だったもの、あのころの話しを持ち出されると恥ずかしくてしかたない。でも、不思議なことに、あの時代を若さの渦中に送った共感は、僕たちにかなり強く根付いている。そして、三十余年を空白として再会した昨年、たまたま君は、ぼくの家のほん近くの市営のギャラリーで個展を開いたんだもの、遠く離れた茨木でよく開いたもんだよ。あれがなかったら、多分一生会うこともなかっただろう。ともあれ、一足飛びに初老同士となっての再会。お互い浦島太郎。そんな風だったよね。奥さんも研究所時代に一緒だったので、急速に空白は消えて、忌憚なく話ができた。それから、梅田で一回、神戸で二回会って食事して、とても楽しかったよ。お互い組織に属さず、しこしこ小さい絵を描いて、なんとか売れんもんかいな、と気をもんでいる絵描き同志、いきおいグチがでるもんね。といって、世を呪うほど粘液質でもないし、どちらかと言えば淡泊な性格で、「しょうないなあ」と言いながら、お互いの全く異質の絵どうしを褒め合ったりしたもんだよね。もう少し時間があれば、もっと君の凄さを見つけられたろうし、ちょっと残念だけど、そんな風に君の晩年のたった二年を同志として過ごせたことは、僕にとってとても大きな意味があったと思っている。
君を家に見舞った九月十六日、やつれた君の姿に、なんとか奇跡が起こらないものかと思いつつも、心底ではこれが最後だなと静かに確信していた。別れ際に、頭をあげるのもつらそうな君は言ったよね、奥さんのことを。
「彼女は天使やで・・・」
「ほんまやなあ。元気になったらなあかんで」
君の目の中には大いなる諦観と、僅かなる希望、そしてなによりも強い絵への情熱を見取ることが出来ただろう。
横たわったままとは言え、二時間ほどしゃべって疲れさてしまった君に、別れを告げた。ちょうど留守をしていた奥さんにも書き置きを残して。
播磨路の秋。そとは空がやけに広がっていた。
同病の友訪なえば播磨路の空広々と鰯雲かな
その二日後、奥さんから容体が悪化したので入院したとの連絡。そして、二週間が過ぎて十月三日に奥さんからの電話。以後、心の中の深いところに穴が開いたような虚脱感が続いている。
そして、しきりに考えていることがある。神はどうして、僕に、君の大切な最晩年を、友人として過ごさせてくれたのか。運命とか縁とか、なんだか考えれば考えるほど、ますますそこに何かがあるようで、君という人間像からますます学ばなければならないことがあるようで、そしてそれが、ますます人間を愛すべき根拠になるようで、どこまでも深く広く、思いは駆けめぐっている。
君の持っていた優しさ、弱さ、そして粘り強さ、正直さ、正しさ、そしてその他諸々の人間的要素、それらはすべてナイーブで善良で、少しも自分を身の丈以上に見せたいなどと思っていない。今の世を生きていくには、ぼくも偉そうな事は言えないけれど、いわば不適格だ。君は自分を防御したりカモフラージュしたり、姑息に相手を威嚇するための「飾り」や「みせかけ」のための「虚飾」を一顧だにしなかった。実に立派です。本当の「静かなる勇気」がないとそんな風にはいかない。ただ、この世を生きていくには、それなりの防御も要れば虚飾も時には必要、そこを辛うじて支えていたのはやはり「絵」だった。君の「王国」だった。だれが何と言おうと君は「その国の王」だった。他人に対する攻撃性を持たなかった君は、十分柔軟で率直で、あえて言えば弱かった。その高貴な弱さは、君自身に知らぬうちにちいさな「傷」をおびただしく付けていったのだろう。しかし、最期まで君は「王」でありつづけ、ますます冴えた作品を描き続けた。
君の絵をノスタルジーとか滅びの美などと評するのは簡単だ。君がその体内に一生かかって醸成してきた「体液」が絵の具となって、キャンバスの上でしたたかに躍動し、躊躇し、濁り、冴え、世の不条理とやりきれなさと割り切れなさ、そしてそれにもかかわらず込み上げてくる人間に対する「愛」「希望」、なんと混沌たる豊穣、哀愁・・・画面は静止したノスタルジーではない。このノスタルジーは力に溢れむしろ生き生きと「溯上する」。ぐいぐいとどこまでも見るものをひっぱって、あるいは追いつけないくらいにぐいぐいと溯上して、どこまでいこうとするのか、それが君が自らの作品に遺した「謎」であり、残された者への渾身のメッセージだ。
高野君よ、「卯月の港」というなんと風雅な号を称した卯港君よ、もう静かに休んでください。
僕もしっかり病んでいて、厚かましく生きようなどとは思っていないよ。ただ、残された時間、君の剽とした姿と、共にした貴重な時間、そしてなによりも、君の絵とその中に託された「画家のこころ」を自分の心の中の一番柔らかなところに抱き続けていたいとの思いが、ますます強くなって来ているんだ。
ひとまず、さようなら。そしてまた、あそこで会う日まで。
合掌。
平成二十年十月七日 拝記
はらんきょ
ちょっとした入院だったが、なにしろ初めてのことでもあったし、普段は憎まれ口ばかり叩いているせいもあって、少々周りの人々をお騒がせもして、どたばたと混乱した二週間であった。その間近代医学の施術をたっぷりと受け、若い颯爽たる医師と、またそれ以上に若い看護婦のお嬢さんたちの、懇切な暖かい手当てに浴し、ある意味でパラダイスのような時間であった。ただ困ったのは、夜更かしの習慣が染み付いているため、夜眠れない。悶々とベッドの上で時の経つのを待つ。これほど辛いものはない。したがって、嬉嬉として退院した。スタッフの皆さんありがとう。とはいうものの、これからが治療の本番であって、ほぼ永続的に続くらしい。
ともあれ、「囚われの夜」からは解放されて、気儘な不埒な夜をこのところ謳歌している。夜の散歩も始めた。退院の日の夜は上弦の赤い月。なんと美しい。重たく西空に傾いて、私をじっと見つめている。色っぽい。部屋にもどって、ラフマニノフの「2番」と「パガニーニの・・・」を聴く。「2番」は私が小学校5年のころ夢中になり、全曲を記憶してしまった懐かしの一曲である。とうにそのレコードはなくなってしまっていて、なんだか無性に聴きたくなって、退院後すぐにCDを買ってきた。昔のはクリフォード・カーゾンとロンドン響のもので、まさに正統であったが、こんどのCDはゲルギエフとラン・ランの新しいもの。さすが噂のゲルギエフ、生半可なものではない。めりはりが利いて現代的でしかもラフマニノフである。良い。懐かしい。小学校への登校の道が彷彿と目に浮かぶ。そして貧しく、苦しく、しかも子供にとっては、そんな苦しさを跳ね返すに十分な冒険と夢にも満ちあふれていた日々。その戦後の混沌の中に確かな芸術の香りを注入してくれた美しい調べ。
人生に華の面と哀愁に満ちた影の面があることを、強く心に植え付けてくれた美しい調べたち。寒い冬の夜、母と姉と10歳に満たない私は、歩いて20分程の銭湯への暗い道を体を縮めて歩いている。途中駄菓子と回転焼きを売る小さな間口の店があって、そこからなんとも場違いではあるが、あのアマリア・ロドリゲスの「暗いはしけ」が聞こえた。当時はそのファドの名曲も流行歌の一つであって頻繁にラジオにかかったわけだ。「暗いはしけ」をバックに冬の夜道をゆく三人は私の中で「絵」となって焼き付いた。「人生なんて楽なはずはない」。言葉をこえた感慨はその時に私の中に棲み着いたらしい。その母と姉は紆余曲折、仲違いをくりかえしつつ、老境で数年同居してほぼ同時期に亡くなった。彼女らの人生がどれほどの幸せであったか。私には想像も付かない。分かりやすい愛し方と憎しみを存分に発揮して、彼女達は去った。そして私は、だめな息子や弟としてたっぷりと彼女達の愛情に浴したのである。
果物屋の店先にすももが溢れていた。退院の翌日。私は当然のように求めた。10個も山にしてあって、赤っぽいやつで、形も可愛らしく色も微妙に異なり、絵とするに十分である。「はざんきょ買うてきたから食べや」母はどういうわけか、よくこれを買ってきた。中にとてつもなく酸っぱいのが混じっているが、またじつに甘味なのにあたることもある。すっと手に入る小ささ、甘蜜の中に繊維が多く含まれ、桃より食べ応えがある。なにより桃よりずっと安価であるし、食べた後の印象がなんとも言えない。つかみどころがないような、上品な優しさに満ちている。すもも・プラム・ソルダム・プルン・はたんきょう・はざんきょう・・・これだけの呼び名で呼ばれているのも不思議なはなしで、私は特に「はらんきょう」という呼び方が気にいっている。「はらんきょ」なんだかいいよね。柔らかで優しい。辻原登の小説の中でも、「はらんきょ」と呼んでいる。ちゃぶ台の上に9個並べてみる。じつによろしい。1個は儀式のように食べてみる。酸っぱいかたい、ほのかに甘い。満足である。勢いをつけて一気に描いてやる。3時間ほどでほぼ出来上がった。こんなちっちゃな果実に見事に引っ張られて、私の制作はまた始まったわけだ。はらんきょさんにもありがとう。
August,2008
門
先日医者にある病気を告知され、少々ショックを受けた。入院も手術も必要らしい。悪くすれば悪くするし、運が良ければ完治する。そんなものらしい。とこ
ろが、本人の私はほぼ従来の生活をするのに困難は感じていない。たいした疲れもなければ、痛みもなく発熱もない。今まで体にメスを入れたこともなけれ
ば、入院というものもしたことがない。病気というものに実感が沸かない。肉親を何人も見送ってきたので、生老病死は当然のことと受け止めてはいるが、「自分」の病気は初体験である。家人はかなり動揺しているが、私自身はいつもとあまり変わらない心境なのである。
それほどに、このところの気分が憂鬱であったとも言える。なにをしても芳しくなく、なにを見ても、なにを考えても面白くない。純粋に美しいものだけが辛うじて心に入ってくる。それを何も考えずに描いているときだけ、辛うじて生きている実感がある。どうもひどい状態で、一日の大半の時間はつまらない小銭計算と世事につぶされてしまう。完全に「loser
」(負け犬)の気持ちになっていた。そんなときに病気の告知をされても、少なくとも「大ショック」は感じない。少々のショックですんだ訳である。
ともあれ、これで病気の一つも抱えているりっぱな「老人」となった。どこかがすっきりしたような気持ちである。経済力もなく体力もさほどのものではない、となればどちらかといえば「弱者」である。今まで振回していた傲慢さを身の内に飼っておくことはもはや不可能のように思える。自分を元気づけるために放埒に遊ばせていた「若さ」も羞恥してひっ込んでしまいそうだ。どうも、ここからは今までとは異なった知恵というか、諦めと言うか、覚悟というか、そのようなものが要りそうだ。今までの人生は結局そのための準備の期間だったのかと思えなくもない。最後の「大きな門」が目前にあるのにやっと気付いたかのような心境である。
それまで疾走するよう駆け抜ける道程から、ここからは絶対に駆けてはならぬ、とこの門の上の掲板には書かれてある。Nessunn dorma(寝てはならぬ)ならぬ、Nessun
corri( 駆けてはならぬ)である。疾風のように怒濤のように駆けるような道程ではないよ。普通に歩きなさい。君はまだトム・クルーズの役を演じるつもりかね。君にあう役はよくて半分引退している老弁護士か頑固で無口な職人か高速道路の料金所の係員くらいのものだよ、と上のほうから声がする。そう言われると、なるほどと思う。少なくとも、人間一人を役者に喩えるならば、自身の役柄をもっと冷静に、適切に考えなさい、ということだろう。ところがさて、困ったことにそのへんのことをまったく考えていなかったのである。
そこで、なんの脈絡もなく、マーラーの5番を久し振りで聴いてみようとなった。最近聴いたのは、すぎもとまさとの「吾亦紅」で、これはこれでいい歌だった。マーラーの5番は有名な第4楽章に魅せられて聴き始めたが、ここ5年ほどはご無沙汰であった。なぜにご無沙汰していたかといえば、このアダージェットの楽章が実に美しすぎて、もはやこの世のものと感じられないからで、早い話が現実から知らず知らず逃避してしまっている。というより、こちらがその気でなくてもぐいぐいあの世へ引っ張られるように感じるからであろう。この世には触れては危険なほどの美というものが存在するようにさえ思わせる。そんなわけで、遠ざかっていたようだ。つまり少々恐ろしかったわけである。ラベルのピアノ協奏曲の2楽章も同じような印象を与えるが、こちらは少し田舎臭さがあって、恐ろしいとまではいかない。・・・・久し振りで聴いてみた。やはり、いい。
人生も最終楽章に入った。交響曲ではアレグロもありがちではあるが、人生の第4幕は、やはりアダージョかアンダンテがしっくりくる。滔々と流れる川のように、あるいはゆったり歩む年老いた行人のように。あらゆる「この世のもの」を心の中で、自分自身のものとして暖めながら、結局は何ひとつ自分のものとして所有することなく、いさぎよく、最後は自分の魂だけを携えて流れ行けたら、どんなにか本望であることよ、などと今のところは思っている。
May, 2008
ただいま見事に心の中がからっぽで、何を見てもつまらなくて、どうしようもない。ちょっと遠出でもして気分転換という気持ちも起きない。どうもいけない。こんな時は人と一緒に出かけるのはますます気が向かない。鬱というのでもないと思うが、大きな意味ではかなり憂鬱なのだ。周りの人々が淡々と生きているのを見ると、凄いなあと感じる。ひょっとして、こんな歳になっていうのも何だけど、自分は生きるのに不適格なのかな、と思えてくる。細木女史によれば今年から大殺界でしかも後厄。この気分の悪さは確かに頷ける。
埋め合わせるわけでもないのだけれど、深夜の散歩は欠かしていない。なんだか怪しい行為ではあるが、これが意外と気持ちを落ち着かせるのにいい。月などが出ていれば、じつに結構。月の光はいっさい人を刺激しようとしない。なんの変哲もない住宅地の屋根屋根の上に静かに降り積もる。シェーンベルグの「浄夜」という曲がある。一組の男女が月夜の道を静かに歩く。女が自分の犯した過ちを告白し、それを慰める男、月の光りと夜の清らかな空気によって、二人の心は次第に溶け合って固く結ばれる。その様子を交響詩で表現している。曲全編に月の光の柔らかく温かく神秘的な雰囲気が満ちる。猫一匹の姿も見えない道、寝静まる町、ジャージーにつっかけの怪しい男の頭の中にはほんのしばらくの間「浄夜」が鳴り響き、この世でもないあの世でもない宙に浮いて、なんとか自分を取り戻そうとする。
桑名正博の歌に「月の光」がある。作詞が下田逸郎で、これがなかなかいい。巷で、特に大阪ではカラオケでも渋くヒットを続けている。こちらのほうはずっと分かりやすく、「灯りをつけるな、月の光が優しくおまえを照らしているから・・・」と始まる。街を去る男が、本当は愛していた女との別れ、「長い旅になりそうだし、さよならとはちがうし・・・」とはいうものの、二度と会うことのないさだめを静かに歌う。だれにでも起こりそうな「この世」の物語。しかし、わたしの月夜の散歩の「伴奏」にはならない。俗っぽいからというのではなく、恋の別れにしみじみとするには歳を取り過ぎてしまったからだろう。散歩はすぐに終わるし、戻ればいつものように妻が寝息を立てて熟睡している。周囲はあくまで平和なのだ。太陽が自力の光とすれば、月は他力の光である。陽の光は晒し、月光は包み込む。太陽が喜びの謳歌とするなら、月はともに悲しむ歌。地球からの距離そのままに、むしろ月のほうが人間に近しいようだ。ただ太陽の惜しみ無く降り注ぐ恵みは、月にはない。潮の満ち引きを演出するくらいだが、人の心の裏側を支えるような働きがある。忘れた頃に静かに西空に現れ、次第に姿を変えてなまめかしく変容し、また次第にやせ細って姿を消す。儚さといじらしさを投影することができる。こんなふうに考えると、月は「いい女」に喩えたくなる。イタリア語でも太陽(sole)は男性名詞で月(luna)は女性名詞。わたしは毎晩密かに「いい女」と束の間の逢引きを楽しんでいることになる。sunshine ならぬ、moonlihgt のような神秘的な女性と、ある夜散歩道で出会って、この世のものともあの世のものともつかないドラマが展開する・・・なんて妄想も起ろうもの。
天六に冬の雨は冷たく
「あんた、このごろ何もすることがないの?」
いや、実際そのとおりである。個展も失敗続きでまったく実入りが悪い。いきおい妻の機嫌も傾く。毎日アトリエに決まった時間こもって描くといったタイプの絵描きでない私は、だいたい家にいる時は寄る辺なく手持ち無沙汰で、ぼやっと抜けた顔でワイドショーなどを見ながら寝転んでいる。次の個展も決まっていない。といって、イタリアへちょっと・・・と飛ぶには、経済的にも身体的にも時間的にも余裕といったものがない。倉庫から居間の取り付け棚にも描いた絵がいっぱいで、満腹状態。これだけ条件が揃えば、ちょっと一休みということになって当然である。
いっそのこと、「断筆宣言」でもしてやろうかと思ったが、筒井康隆あたりがやれば、「おー」っと世間も驚こうが、私などがやったところで、妻や息子さえ驚かない。「ええんちゃうん」とでも言われそうだから止めておく。病気になって入院というのもいいかな。痛いのと苦しいのはいやだけど、正々堂々とぼやっとできるし、少なからぬ同情さえ得られる・・・とまで考えたが、これって学校がいやな子供が考えそうなことで、あまりにも幼稚な思考だと気付いて赤面する。
「いや、そんなことはないよ。本屋へ寄らんといかんから、そろそろでかける」と、空模様の怪しいなか、とりあえず出る。定年になったサラリーマンの気分である。
夕方からの授業まで4時間ある。巷をふらっと歩くには都合の良い時間である。まあ、天六辺りがええかな・・・ということで、阪急電車でいざ。それにしても、この時間の各駅停車の寂しさよ。最後尾の車両は私とうら若き女性車掌のみで、贅沢といえば贅沢。特急はそこそこ混んでいて、特にこの時間、中高年の方々が多く、おそらく映画でも見に行くか、ただ券の観劇にでも行かれるのであろう、そんな風で、ゆったり座れるスペースが無いので極力避けるのである。
天六駅に近付く頃にはとうとう小雨が降り出した。今は地下駅だが、50年前はビルの2階がターミナルになっていて、だらっと広い階段を降りて、街に出ていた。一階は通称「八均(はちきん)」つまり八十円均一の商品が売られていて、今の「百円ショップ」の原形で、幼少の私もそこで、なぜか、白いスピッツの小さな人形を買ったことがある。
この街は実は父との思い出の街である。父は月に一度は私を連れて天六へ来た。パチンコが死ぬまで大好きであった。私は当時小学校の低学年だったので、一緒に「打つ」わけにもいかず、父の「勝負」の間は、男達のずらっと並ぶ足元に落ちている銀玉を拾って回るか、それに飽きると表の商店街をぶらぶらして時間を潰すのである。父が「勝つ」のを祈念しつつ二三時間は待つのが常であった。やがて勝負を終えた父が、時には意気揚々、時には少々消沈して出てくる。それから、大概は「玉一」に入って、びっくりうどんを食べさせてもらう。量の多いだけのかけうどんだが、これがうまかった。昆布の利いただしから真っ白なうどんを夢中ですする。かまぼこの切片は最後に残しておいて、ぱくっと食べる。腹がいっぱいになって、とてつもない幸福感に浸った。その玉一もその後喫茶店に代わって、今はゲーム店やらコンビニみたいのになっている。
天六の交差点は五つの方向から道路が集まる。「玉一」もたくさんのパチンコ店も阪急の駅も交差点付近に集まっていた。梅田からの市電の駅もあって、群衆が交錯し、賑わい、沸き立つような活気を感じたものである。今は多くの車も直線的にスムースに走り抜ける。大きなビルや高層マンションが建つたびに交差点の景観はすっきりとしてきた。つまり、大阪の他の交差点と区別がつきにくくなっている。しかし、なんとなくここに愛着を感じるのは、過去の映像がダブるからであろうか。大学時代の家庭教師もこの近所でやっていたし、卒業後のアルバイトも浮田町の塾で、二十歳から三十二歳まで、この交差点から半径二百メーター内をうろうろしていたことになる。子供のあのころと同じ行動半径である。意識して選んだのではなく、なりゆきでそうなった。不思議なものだ。
それにしても、細かな雨が冷たい。傘をさすまでもないが、首をすくめるように浮田町の路地から中崎町商店街に出て、天神橋筋商店街へ向かう。行き交う人は、今「つっかけ」を引っ掛けて家から出てきたところ、というような、リラックスした表情で歩いている。商店街はあまり変わらない。幾度となく歩いた通りをなぜに、こんなうら寒い日にうろついているのか、ふとそう思う。すみずみまで覚えているこの眺めを、なぜまたぼんやりと確認しに来ているのか。タコ焼き屋も鰻屋も中華料理屋もそのまま、市場もそのまま、焼き魚屋、塾の生徒のモータープール。結局、そのままのものを確認いているだけだ。それにどんな意味があるのか。意味があるとすれば、それを自分の絵にすることだろう。そのまま画題にするのではなく、時間とともに移ろうものとその残像、すべて自分を囲むものは、生の誠実さと儚なさの狭間でいじらしく存在する。そこに私にとっての「絵」が成立出来たらなあ。肝心の画業のほうはさぼりにさぼっていながら、実際よく言うよ。成し遂げる画家はそんなことで時間を潰してはいないよ。つくづく、なんと中途半端な人間なんだろう、などととりとめのない思いが堂々巡り。ああ、こんなふうに生きているって、なんと頼りなく重いことよ。
もうそろそろ切り上げよう。締めくくりに久し振りで父のお気に入りだった喫茶店に寄ってみる。いわゆる「コーヒー好き」のための喫茶店でとてもこくのあるコーヒーが飲めた。千日前の「丸福」に劣らない味であった。最後に飲んだのはもう何年前か覚えていない。同じ場所にあった。ところが、悪い予感がする。店の作りが白っぽくなっている。以前の重厚さが払拭されて、安物の合板を多用して、白いビニールソファ、人工的で妙に明るさと軽さにこだわってはいるが、洗練されたころは一点もない。客も少なくガランとしている。奥の席に年配女性の五六人のグループが、カラオケのお稽古帰りらしく、怪鳥の雄叫びのような笑い声を立てて上機嫌である。これで、完全に失望状態である。こんなところで、まともなコーヒーが飲めるはずもない。前掛けもしないでスニーカーを履いた五十からみの愛想だけはいい小太りのマスターが一人で仕切っているらしく、目障りに動く。先代の築き上げたものをぶち壊した張本人である。注文したコーヒーは案の定、予め出してあったのを手鍋に移して乱暴に煮立てたのを入れるのが、こちら側から見えている。もうどうでもよくなった。
むれたさ湯のようなコーヒーをそそくさと飲んで、地下駅へ向かう。芯まで寒くなっている。わが心の天六よ・・・。
前をよぼよぼ歩いていた大柄のホームレス風の男の動きが、突然機敏なものになった。階段口に落ちていた百円玉を拾ったらしい。とりあえず、よかった。なんだか訳の分からない午後の一時。
おじやうどん
夜更かしの私である。長男がどうしても残業がちな業種で、帰宅が深夜を越えることもしばしばであり、いきおい私が、彼の夕食というか夜食を用意する係りになる。妻が作ったのを暖め直したり、時には一品添えたりもする。二時を越えると、さすが量や内容を消化本位で調整しなければならない。作ってあったのを弁当のおかずに回し、あっさりして体の暖まるのを、手早く作ってあげることが多い。中でも、「おじやうどん」が最も気に入られる。手なべにだしをとり、かしわや蒲鉾、それに有り合わせの野菜を入れる。火の通ったところで、ごはんをだしの半分ぐらいまで入れて、その上からうどんの茹でたのをほりこんでさっと煮立てる。つまり、おじやとうどんの合体である。きつねうどんで有名な大阪の松葉屋の人気の一品で、二三回食べたが、これが実に旨かった。自分で作るにもごく簡単だ。しかし、うどん屋の多い中、ほかの店ではなかなかお目にかかれない。
松葉屋さんといえば、船場の真ん中で、忙しい商人がうどんとめしを注文するうちに、「別々に食べるのも邪魔臭いなあ。大将、これ、いっしょにしたらええんちゃうか」と言ったかどうか、しかし、きっかけはどうもそんなことらしい。大体、大阪以外では、うどんとめしをあわせて食べることは、あまりポピュラーではなかったようだ。東京からやってきた大学の同級生が「大阪じゃ、うどんをおかずにしてめし食ってんだねえ。たまげたよ」などとしきりに感じ入っていた。彼にこの「おじやうどん」を食べさせたら、果たしてどんな感想を吐くだろうか。いや、たまから食べないだろう。確かに、一見奇異な組み合わせと感じるが、大阪人である私などは次の瞬間に、「ひょっとしたら、いけるかも」と思い直してまずは注文と言うことになる。良いだしと具のバランスさえとれていれば、まずいはずはない、と予測するからで、それだけではなく、うどんとめしという全くありふれて堂々たる主食同志が、一つの器の中で共演するなどは、パバロッティとシナトラのデュエットを聴くような贅沢感とバロック的な豊饒さえ想像させるのである。
お好み焼きと味噌汁と御飯、やきそばと御飯と永谷園の松茸の吸い物、赤飯とポテトサラダ。など、意外にいける組み合わせはあるもので、決してやんごとなき歴々には受け入れられないだろうが、手軽で旨くて腹も張る。食っているようすは決して上品なものではなく、グルメの輩には唾棄されてもしかたないような食であろう。でも旨いのである。
どうもこのような感性は、大阪という土地に特有のモノかも知れない。通俗のものを素直に受入れ、それに合理的な変化を加えて好みのものに仕立てる。決して下手物に陥ることもなく、どこかに都会的な洗練をも残す。勿論都会的な「猥雑さ」も濃厚に含まれる。際どいと言えば際どい。しかし、京モノのような淡麗の物足りなさや、江戸モノの洒脱やコスモポリタニズムの明快さにはない、どかっと重厚でどこかフレンドリーでおかしい味わいがある。つまり、いい上方落語を聴いているような、ふわっとして、腹にしっくりおさまるような感じである。天満宮に「お渡り人形」が飾られているが、例の天神祭りの船渡御に飾られるものだが、文楽人形の大形みたいで、頭と言い、衣装といい、どかっとボリュームがあり表情も生々しく実に迫力があるのだが、なんとなく愛嬌もあり、嫌味がない。印象としては同じである。小出楢重や佐伯祐三、鍋井克之の絵にある「粘り」とも共通する。広げていけば、憂歌団のブルース、ソース二度付け厳禁の串カツ、自由軒のインデアンカレー。どんどん出てきて楽しくなるのだが、「豹柄のおばちゃん」までいってしまうと下手物になってしまう。
取り澄まさず本音をうまく出しながら、下卑になるぎりぎりのところで、独特の都会的な感覚でそれを避ける。やや危なっかしいそんな「妙味」を楽しむようだ。その最後の「感覚」こそ大阪人の特徴なのか。人それぞれに持っている人生観、「なんぼきばっても、人間なんか一皮むいたらみないっしょや」、「おもしろうてやがて悲しき・・・」、諦観を抱きながら「悟り」へ向かうことはどこかで拒否して、あえて世の濁りの水に裾を濡らして、基本を勤勉に置く。しかし、いつでも「遊ぶ」態勢はできている。なんと、ほどよく屈折した心理であろう。「ああ見えて、あのおっさん、けっこうおもろいで」と言われる人間が、数多く生息しているのである。
2007年の遠い秋に
9月に入ったというのに、わが部屋の温度は34度、しかも深夜にしてこの責め苦。エアコンなどという気の利いたものもなく、ただ最近奮発して買った液晶テレビのみが慰めで、とにかくスイッチをいれてみる。
わあ、アンドレア・ボチェッリや・・・フィレンツエでの野外コンサート、アルノ河畔である。いかにも涼しげ。観客はほぼ正装で中にはコ−トを着ている人もいる。
滔々とボチェッリが歌う松明のポンテベッキオ彼の地の夏よ
そして、この大阪。なんとも残酷な暑さだった。「暑い」というより「熱い」となれば、もうこれは気候風土から逸脱しているわけで、どうにも受け入れ難い。家にいるのも苦しく、つい街をふらつくことが多かった。
人生が煮詰まりていく炎熱の街のカフェにて吸うエスプレッソ
何かとんでもないことを試されているようだ。
こんな夏をひとつ越えるごとに、自分のなかの保湿成分が枯れていきそうで、その分をなんとか補填しようともがきながらほとんどの精力と時間が費やされる。そして、ついにもうどうでもいいや、と思ったとたんに秋風が吹く、そんな繰り返しである。きのうパバロッテイが亡くなった。まさにイタリア的なアーチストであった。節制などとは無縁な肉体。自分の才能を愛し、歌を愛し、おそらく多くの女性も愛したであろう。それゆえの艶やかさと明朗さ。今宵はどうしても聴かねばなるまい。姉の遺したCDを取り出す。「トウーランドット」一曲でいい。
寝てならぬあの歌声の清朗の残響あまねくわが小部屋まで
そんな風で、どうやら夏は終わりそうだ。結局、絵は怠けてしまった。毎年のことでもある。そろそろキャンバスを張ろう。気紛れに下手な歌を詠んだりして戯れていると、どこからかばちが当たりそうだ。
いまだ炎熱は止まず。
「耳をすませば、秋の気配・・・」などと悠長なことを言っている場合ではない。身体自体が煮つまっていきそうだ。秋の気配など夏の気紛れな居座りに押しつぶされている。夏が弱まり粛々と秋が深まる風情は、日本の四季の移り変わりの中で、最も劇的で美しいものであろう。
「秋来ぬと目にはさやかに見えねども・・・」である。その風情が今年は完全に奪い取られてしまった。おそらく秋は唐突にやってきて、そそくさと冬の表情を見せることだろう。日本人としての感性に逆らうように、一年の中央で怪物のような夏が居座った。
とは云え、我が破屋の小庭にも、あれ、虫が鳴いているのだ。鳴き出したのはいいが、元気がない。ちょっと早かったかな?このまま鳴いていていいのだろうか?
先がけて鳴き出す虫も切れ切れに戸惑いいるか 今だ来ぬ秋
地球の温暖化、排出される炭素の量が、やはり決定的に許容を越え、地球の風土を変える勢いである。インドも中国も夢を見たいのだ。「おまえたちは、自転車か牛にでも乗っていろ」と先進国は言う。
「車に乗って優雅に生きるのは俺たちだけでいい」
・・・まるで芥川龍之介の「蜘蛛の糸」である。胡散臭い。グローバルな情報化社会を作っておいて、欲望だけは抑えろと言う。無理な話だ。
インドよ。中国よ。遠慮することはない。消費社会の甘美な蜜を味わいたまえ。そして行くところまで行って、自分達の先達が築き上げた英知が、いかにすぐれていたかというところへ戻ることだ。
そして私たちは、相変わらずモノに囲まれながら、罪滅ぼしのように「省エネ」「リサイクル」と唱えながら、これからも「遅い秋」を待つことになるのだろうか。