湧虫雑記


美と生きる

絵を観る

 最近よく耳にする。「私、美術館を回るの大好きです」。実際、話題の美術展は盛況で入場制限が行われるのも珍しくない。一方、旧来の公募展は、出品者、縁者以外の一般入場者はごく少ない。町の画廊も、画商としてやっておられるところは、客足は寂しい限りで、この現象はここ20年ほど変わっていないし、おそらくしばらくは続くでしょう。

 美術館の企画するメジャーな作家の展覧会は、勿論作品の質も高く、時間をかけてショウアップされ、宣伝も周到に行われる。少々高い入場料を払ってもそれだけの価値はあると、思われているのですね。観覧者は作家への興味を満たし、作品に触れることを大目的としているのですが、大いに感動してその後の人生に影響を与えることもあれば、単なる「経験」として心のどこかに収まるか、消え去るか、といったところでしょう。ただ、名作と呼ばれるものは、どうしてもこの形でしか触れることができません。また、芸術を広く大衆に解放する役割も担っていますね。

 小林秀雄はこのような美術品との触れ合いを「空虚な妄想」を生むだけだと厳しく述べています。彼によれば、行為と結び付いていない芸術にどれほどの意味があろうか、と言うのですね。行為とまでいかなくても、生活のなかに結び付いていない芸術を空しいものとしたようです。非常に厳しい考え方ですね。しかし、座席に座ったまま聴くコンサートや美術館の展示で本当に芸術に触れたかのか、と言われれば、確かに大きくうなづくことはできない。会場を出た後は確かに満足感もあるし、気分もいい。概ねそんな気分の領域で収まっているように思えます。「フェルメール見た?」「うん、見た見た」、で終わる。私自身も是非見たいと思っている絵があります。レンブラントの「夜警」、フェルメールの「デルフト風景」、ミレーの「春」の三点ですが、これを日本の美術館の混雑の中で見ようとは決して思わない。自分にとって大切な作品との対面は、特別なものでないといけないと思っています。アムステルダムにゆっくり滞在し、極力来館者が少ない時間を選び一人でじっくり眺める、あるいはデルフトの町を数日さ迷った後で、あるいはバルビゾンの風土に身を浸した後で、これらの傑作を見たい、そうでなければ、見ないほうがいいと思っています。いわゆる「思い入れ」ということです。恋人にやっと会えるというとき、その会い方にこだわりを持たない人はまあ、いないでしょう。そんな思い入れのために生活は少々の軋みや変形を余儀なくされる。人生の中に深く刻まれ、あるいはそのルートを変えることも有り得る。大袈裟に言えば、「不穏なときめき」なのです。最近はやりの「癒し」などとはほど遠い積極的な意味があります。

 それに対し、街の画廊で、あるいは小さな会場で、現存の作家の開いている個展を観るのは、美術館とは少し違っていますね。もともと作家の知名度も比較的低く、時には全く無名で、観るほうに何の予備情報もない。作品の観賞は丸ごと観るほうに任されるわけで、その分新鮮でもありスリリングでもある。何よりも観る、感じる能力を問われます。本当に気に入れば、購入することもできる。作家が会場にいれば、話をすることもできる。美術館と比べていろんな「行為」に結び付いているんですね。美術館で不朽の名作といくつも対面した経験を生かして、街の画廊で生きた作家の作品と触れること、この両輪があって、はじめて観賞の奥行きができるように思います。本当の美術ファンのスタンスですね。

絵を持つ

 骨董の世界では基本的に触れることが大事だそうです。手で触れてみて、そして所有する。そしてさりげなく室内で使われるのが本道らしい。日本には古くから茶道の影響もあって、そのような美と生活のしあわせな関係がありました。願わくは、絵もそんなふうに扱われたいものですね。ただ、洋画の場合、掛け軸や屏風と異なり調度・家具として室内に溶け込みにくい。どこか近代的な「自己主張」があって、観る方に向かってきます。それだからこそ「絵」なのですが、部屋の中の「けしき」になってくれない。その代わりに、いつも語りかけてくるようなところはあります。あえてそんなものを室内に掛けるのは、一種の酔狂に近いと言えます。ただ、その酔狂こそ生活の中に美を取り入れるエネルギーで、絵描きはそれとの出会いを待っているわけです。

 絵は高価だ、とよく言われるのですが、高いから買うのにエネルギーと思い切りが要る。見て惚れ込んで迷って決断して所有する。一連の心の動きの中に、その絵の作者に劣らない「熱さ」があり、その人の個性が表れるように思います。お金で絵の価値を計るのは余りに乱暴ですが、100万の絵を思い切って買った人は、漠然とであれ少なくとも100万円以上の価値を、その中に認めていると言えます。ただし、通常の買い物ではない。100万のブルガリは持ち主・自分を外部に向かって飾るためのものですが、部屋にいい絵を掛けていても、外部に向かう飾りにはなってくれない。あくまで所有者に向かっているものです。個人的な対話の世界で、その意味で他人の思惑や評価など入る余地がない。純粋な精神的な世界を作ってくれる。

 結局そのような渇望を持つ人達が、芸術を支えるのです。そんな精神の底流には、他者への直裁なまなざしや、優れた人間性の発露に対する憧れが常に生きていて、その人の存在自体が周囲の人々に柔らかな光を当てる、ということになるのではないかと思えるのです。自分を必要以上に外部に向けて肥大させようとする気持ちは、つまるところ中身の空虚化を生み、本当の豊かさからどんどん離れていくことになるのですね。その意味で芸術に「踏み込む」という行為は、常に人間性を自らの中に回復する貴重な、人間独自の財産だと思うのですが、・・・まあ、「酔狂」には違いないですよね。

岩崎 雄造