湧虫雑記


三丁目の夕日なんて観ない


 実際、私は観ていない。続編も上映中とか。意地ではなく、なんとも空しい気持ちになりそうで、観たくないらしい。とはいえ、映画は好きである。なんだか、複雑な気持ちが働いているようだ。
 あれはええ映画やで、みんな観て下さい・・・とある会の席上である淑女がおっしゃった。やや懐古的な雰囲気の会だったので、自然といえば自然ななご発言だった。考えてみれば、昭和30年の頃をもう一度というなら、小津とか成瀬とか溝口の映画を観ればいい。ケーブルTVでもしょっちゅうやってるし、DVDもたくさん出ている。映画館でも、その辺りの作品を特集上映するところも最近は多い。
 では、なぜに「三丁目の夕日」なのかというと、今という時代に作ったからこその意味が浮かんでくる。作る方にどこか余裕がある訳で、つまり、距離を置いて作れる。きれいに呆気らかんと作ることができる。勿論、ストーリーの中には当時の人々のメンタルな部分を組み込むことができようが、あの時代の匂いまでは再現できない。というより、観るほうにそんな「匂い」は必要でないのだろう。成瀬巳喜男の「浮き雲」、溝口健二の「大阪物語」などを観ていると、その背景の町並みから家屋、勿論主人公の風貌、所作などがプンプン時代の匂いを放ってくる。第一、作っている人々が、同時的にその時代の苦悩や躍動感を身を以て生きているのだから、質の上から異なると言っていい。
 こんな悩みや苦しみ、喜びもあったなあ・・・と余裕をもって思い至す。この平成という得体の知れぬ時代に寄り掛かりながら、昔語りに昭和を語ってしまう。そこには「共感」というものと、少し違った心理がはたらいているようだ。年配の方なら、結局「やっぱり、今の方がええなあ」と納得して映画館を出る。時代の優越性を確認して、どこかほっとする。では、昭和は嫌いなのかというとそうではなく、自分が生きたという点で、やはり一種の愛しさがある。むしろ、自分への愛と繋がっている。
 あの時代は大事に綿でくるんで引き出しの中にしまっておき、おそらくめったに取り出そうともしないだろう。自分の生きているこの現在に、決定的な不満を持つこともなく、贅沢を排して身の丈の中で日常を送り死んでいく。何を残すというのでもなく、極力淡々と生きるほうがいいのである。強い悔恨や憧憬など持とうものなら、せっかくの残りの人生が歪んでしまいそうで、実際恐ろしい。ただし、現在といえど、現実は人の思いどおりにはなかなかなってくれない。熟年離婚、老老介護など静かな不条理がひたひたと迫って、飲み込まれてから夢中でその現実を送ることになる。それらの新しい現実を解釈する「言葉」が見つからない。というより、社会や文化がその言葉を用意できていないのだ。新しい時代を迎えるときには必ず起こる現象だろうが、個人としては、そんな悠長なことは言ってられない。必死になって自分にまとわる不条理を埋めようと言葉を捜す。当然、そんなに簡単に見つかるものではない。時代の中に特有の「いらつき」というものがあるのなら、そんなところから出てくる。

 自分の来し方しか自分の「言葉」を作ってくれるものはないと、私は思っている。私の言葉のほとんどは、「昭和」から紡がれているようだ。それを一種の誇りと感じている。「平成」は空気でしかない。しかも、あまり快い空気ではない。昭和という「塩水」で泳いでいた魚が、知らぬうちに平成の「淡水」の領域に入ってしまって、ぎこちなく泳いでいるようなものだ。だから、今を解釈するにも言葉を昭和からもってくる。自分を作ってくれたのは明らかに昭和からでもある。ある種の「義理」のようなものさえ感じているようだ。これは、しかし、保守的ということでもあり、認めざるをえない。 明治維新に匹敵する敗戦という転換を経て、劇的な余韻を残して旧時代が消滅していく様と覆いかぶさるように戦後の国際化が進む様を目撃し、その両方から影響を受けてきた。そこには独特の色彩があったように思う。新たなページが次々とめくられ、人々は貪欲にそれらのページを消化しようとした。ある時は恐る恐る、ある時は嬉嬉として、時には怒りをもって。後でぶちぶちと切られてしまうことになる人と人の「繋がり」も多様に残っていた。エネルギーは少々不器用に産業経済と文化に放射され、街は混沌としながらも沸々と湧いていた。そんな中で触れる芸術の清新だったこと。私自身の形成はそんなところから始まる。そして、今も常にそこに立ち返ろうとしている。原風景の強さというのか、しかたのないことだと思っている。
 私の中で昭和は常に身近かに息づいているし、今更平成の「淡水魚」になるつもりもないし、とうていなれそうもない。勿論、自然に私に溶け込んでくるものまで拒むつもりはないが、このモノだけが豊富で空虚な時代によりかかって昭和を、まるで打ち上げ花火を見るように眺めるつもりはない。むしろ、何気ない路地を歩き、そこにまだ確かに息づいている、あの時代と変わらぬ人間的で、飾り気のない「たたずまい」を愛し、経済効率というお化けによって破壊されていくあの時代の遺物へ痛切なレクイエムを贈る。そして、自分自身では築50年の木造平屋のあばら家に住み、ヤニで色付いた土壁と天井板を眺めながら、障子や襖で爪を研ごうとする不届きな猫を叱りながら、ラベルなどを聴いている。これが実にしっくり来るのだ。

岩崎 雄造