湧虫雑記


正月早々、ローマを見せられて


 季節の訪れは全く気紛れだけど、暦の推移は実にスムースで、「今年こそ」と思った2007もなんということも無く滑るように行き過ぎて、まさに「人を待たず」、こちらはどぎまぎするだけで、年賀状の宛名書きも、なんだか気分がのらず、遅々と進まなかった。
 ともあれ、2008が始まった。縁起ということもあるので、鬱陶しい表情は禁物で、とにかくめでたいとしなければ、周りの人々にも迷惑というもので、抱負らしいものも持たねばならない。ところが、これが一つも出てこない。堕落したのか、それとも老いたのか、どうにも、心細いことである。
 ごろごろしながら、正月の三が日を過ごす。正月特番としては珍しい「ローマの歴史に学ぶ」という趣旨の三時間を越えるのをやっていた。BBCの制作を編集しなおしたもので、本来ならNHKあたりでやりそうなのを、民放が思い切ってゴールデンタイムに放送するとは、なんだか今年は今までと違っている。ローマ帝国がいかに繁栄し、いかに滅びたか、正面から取り組んだもので、日本の現状と照らし合わせてみようということらしい。「浮かれてばかりはいられんよ」と本当に感じ始めたのか。そういえば、高度経済成長の初期のころ、わたしが中学生のころ、二次大戦のドキュメンタリー番組が頻繁に放送されていたのを思い出す。敗戦の事実をもう一度噛みしめて、前へ進もうという気持ちを反映していたのだろう。ただ、今回のは、回顧というより「他山の石」としての取り上げ方で、分かりやすくできていた。
 ローマの歴史の濃密さは只モノではない。今も街全体が歴史を証言し続けている。歴史が主役で現在は脇役、過去が家主で今に生きる人間たちは「店子」のようなもので、概ねみんなもそれに不満を抱いていない。小さな丘がいくつもあって、坂も多く、道路も上がったり下がったり、通りが毛細血管のように複雑につながっていて、すっきりとした近代的都市の景観とはほど遠い。しかし、二千年以上に渡って構築され続けてきた累々たる歴史的建造物の迫る眺めは圧巻である。共和制から帝政、中世の混乱からルネサンス・バロックにいたる歴史を豊かに証言し続けている。そして、そこで今を生きる人々は、いかにもささやかな一生を、豪奢な時間の蓄積で彩られた「容れもの」に抱かれて全うする。ある意味でたいへんな贅沢である。
 ただ、日本の都会のように小綺麗に整備されてはいない。歩道もでこぼこのところが多く、商店も一時代前の作りで清潔ではあるが、華やかさは感じさせない。いわゆる安易な都市整備とか都市開発といった発想をたまから拒否しているかのようである。都市ならではの「快適さ」にあまり興味が無いのか、といっても、ローマ時代に上下水道はすでに完備されていた。どうにもおかしな街である。ただ、言えることは、人々がひたすら「ローマ」を愛し誇りにしていることであろう。街路が歩きにくくても、タバコの吸い殻だらけでも、東欧からの難民やジプシーが物乞いをしながら通りに並んでいても、ローマの美しさは変わらない。夜の十二時を過ぎる頃、通りの側溝を大きなブラシで掃きながらごみを取る清掃車がきっちり回ってくる。その「懐」の広さがどこからくるのか、大きく漠然と言ってしまえば、その「歴史」であり、とりわけその証言を残そうとする意思であろう。

 大阪の街路を歩く。ちりひとつ落ちていない通りなどは、一見気持ちよい。そのうちに、なんだか落ち着かなくなる。私の性格なのか、どうも「潔癖」というものに馴染まない。脅迫されるように、歩くスピードも上がってくる。困ったものだ。
 ふと、苦し紛れに考える。「美化」とか「健康」とかのスローガンは、他に何もない時に出てくるのではないか。あまりにも当たり前過ぎる。精神的な美学が貧困になった時に「町をきれいに」とか「なによりも健康」といった掛け声が社会に広まるような気がする。昔、商家の前の通りを使用人が毎朝掃き清めたのは、商いの心構えを体で確認するのが半分で、あとは当然、不快でないようにとの配慮からだろうが、商人としての誇りと美学の表れであっただろう。それとはちょっと異なる。「とにかくきれいにしようよ!」ということであり、「健康が一番、目標は長生き!」と、一体それがどんな美学に基づいているのかと考えると、それらしきものは見当たらないのである。「理屈抜きに素晴らしいじゃないの」と言われれば、「それはそうですね」としか答えようがない。といっても、まずみんなのやることはごみを拾うことか、へばりついたガムの黒点を削り取るくらいで、それはそれで結構なことだけれど、どうも腑に落ちないのは、きれいになった大阪が、さほどきれいではなかった以前の大阪ほど「美しく」ないかららしい。
 あくまで、私の個人的な感じ方ではある。とにかく、「禁煙ゾーン」となった御堂筋よりも、ひとつふたつ内に入った小さな通りを歩いてしまう。そこには、勤勉でストレートな大阪人の匂いが残っていそうに思うからだろうか。ほぼ役目を終えたような老朽化したビルや、おそらく老マスターが黙々と昔ながらの方法で静かにこくのあるコーヒーをいれていそうな古びた喫茶店などに目がいってしまう。人間の生きた匂いが年月をかけて隠しようもなく滲み出したような様子に惹かれるようだ。そこに都会の素顔が見える。歩き回ればまだまだ路地も健在であるし、大阪らしさの生きている町並みはたくさんある。しつこく生き残ってほしいなあ・・・などと考えていると、またたまらなくローマヘ飛びたくなってきた。

岩崎 雄造