湧虫雑記


ほめられたり、けなされたりで


 絵を見てもらう、個展やらなにやらで、私自身がその場にいることもあるが、いないこともある。様々な感想を頂く。心優しき人々が多い。おおむねお賞めのお言葉を頂く。私がいない時は、人を介してそんな勿体ないお言葉を伝えていただく。確かに気持ちのいいものであるが、裏腹に不安にもなる。「素晴らしい描写力ですね」「情感に打たれました」「画面から優しさが伝わってきて、云々」、などと言われると、胸を張るどころか、どこかに逃げ出したくなる。

 絵描きの感想はまたひと味違っている。ひとあたり「能率よく」眺めて、「よう描いてはるな」「色がええ」「うまいなあ」、といったところである。実は彼等は本当の感想の二割も言っていない。障りのない言葉を懸命に探して、控え目に吐露している。こちらの方はさほど気にならないので、さらっと聞くことができる。そして、相手に気を遣わした分、申し訳なく思う。ただし、公募団体に所属している人の場合は、ほとんど感想らしきものは言わない。彼等にとってその団体が「社会」であって、出世も活動もまずその「社会」でのものでなければならないし、作品もその「社会」の持つ「神の眼」によって認められなければならない。常に「神の眼」が頭の中にあって、無意識に自分の眼も「神の眼」に合わせてしまうので、そんな見方で何の関係もない作家の作品を見ても意味ないわけで、世間話でも軽くしながら、帰っていく。

 もっと困るのは、絵を扱っている人、これはちょっと様子が異なる。一応絵が好きでその仕事に就かれたであろうと、こちらは推測する。ところが、いろんな作家と接しているからだろうか、あるいはそれがプロ意識とでもいうのか、なかなかこちらの「座敷」まで上がってくれない。そんなことしている暇はない、といったところだろうか、あるいは、こちらが「ぼくのも扱ってくれませんか」などと言い出されないように、すべての「取り着く島」ならぬいわゆる「きっかけ」というかintimacyというか、ふつうにリラックスしていたら自然に表れそうな人間的な要素を消し去って、あるときは、さも義理で来ましたなどという様子で、冷たく見回して一言二言で帰っていく。絵に対しては一家言も何家言もお持ちだから、それに引っ掛からない作品には全く用はない、と即座の決断を下すことができるし、第一商売なんだから、遊んでいる暇はない。しかし、こちらとしては「ちょっと遊んでいきませんか」という姿勢で構えているわけだから、まったく噛み合わない。なかに話好きな方もおられるが、だいたいそんな時のお話は「例の○○がスランプの時さ、おれが・・・とアドバイスしてあげたら、次の年に安井賞とってねえ、」という調子で、カエルのような腹を膨らます。こういう人には絵描きの「凄味」というものが分かっていない。むしろ、文学かなんかをやっている人のほうが、見方や接し方に柔軟性があって、ふわーっと入ってきて、うまく「遊んで」帰る。「あなたはお話好きだとお見受けしますので、感想めいたものを言わせていただきますが、杜甫でもない、李白でもなく、あなたの絵は王維です。突出することを避けて、敢えてだれもが入りやすい世界で制作なさっていて、とても心が和みます」などと言って、さわやかに風のように帰っていかれる。拙作を「読む」ように見て下さった。これなんか勿体ないくらいで、じつに嬉しい。

 実際、観るほうにとっては、どう観ようが全く勝手であって、こちらはすべてよしとしなければいけない。しかし、こちらの勝手もあるとするなら、作品をけなされるほうが、やりがいはある。ほめられると返す言葉に窮するが、けなされると、あくまで心中の声ではあるが、思い切り反撃の言葉を叫ぶことができるからである。

・・・ぼくは、上手い絵は嫌いやねえ。

「ほんだら、下手に描いたらええっちゅううんかい?人間性云々と言いたいんかいな。単純な奴やのお。おまえも、べっぴん見たらふらっとくるやろ。けつの穴のこまい男や。」

・・・今頃、印象派でもないでしょう。モネ風は避けたほうがいいでしょう。

「アホか、おまえは。モネがこんな下手な絵を描くかいな。ばかにしたらあかんど。モネに近付くために描いてると思てんのか。あんな立派な絵にはどうにも追い付けんから、安心して描いとんじゃ。」

・・・もう少し個性的なところがほしいねえ

「わあ、それ言われたら弱いなあ。自分に自信がないんやなあ。自分らしさなんかが出たら、どうしょうかと思うんや。なんや、気持ち悪うてなあ。知らんうちにそれが出てこんもんかいな、上品になあ。けど、ちょっと無理やろなあ。すんまへん。」

 以上、亀田君風の「心の声」である。

岩崎 雄造