湧虫雑記


自然と不自然の妙


 刻明に細部まで写した乾いた細密な描写の絵が一部で流行っているようです。実に見事な描写力、写生力に驚く。と同時に「なんと大変なこと、ごくろうさま」と同情もする。と同時にとんでもなくいやになる、げっそりする。なんだろう、こんな絵が現代の世から生まれるのは。しかも、一流の美大を出ている比較的若い作家が、そのての大部分を占めている。絵肌もつるんとして破綻がなく、構図も無難で見るからに「上手い、さすがプロ」とみんなを驚嘆させるには十分です。インスタレーションやビデオアート、コンピューターグラフィックに進む若者の一方、こんな「職人的な」画家が、反動として出現するのか。一部の画商は彼等を一時的にでも重宝しているようです。 彼等は自分たちを「リアリズム集団」などと位置付けているようですが、少しもリアルに感じないんですね。リアルというより「そのまま」描いている。ただ、それだけで表現上の「リアル」ではないからです。描かれた花は実に巧妙な造花のような堅さで、婦人像ときたら美顔器でも使っているのか、ぴかぴかのてかてかで、服の柄や皺の克明さに比して表情から感情や性格や作家の思いは勿論感じ取ることができない。まるで、地方都市のミス・フェステイバルがその土地の伝説の姫に扮装して、恥ずかしいやら誇らしいやら、どうしていいか分からずに、大根のように突っ立っている。そんな風情に見えます・・・悲しいですね。この人たちは岡田三郎助のあの浴衣の後ろ姿の絵やシャルダンや十七世紀オランダのバイエレンの絵をどういう気持ちで見ているのか、底無しの疑問を抱いてしまいます。多分見ていないのでしょう。どうも、見本はワイエスやスペインのアントニオ・ロペス辺りとしか思えないけれど、両者の最も優れている部分を無視して作っている。いわゆる、「換骨奪胎」というやつで、わが朝の文化の停滞を喧伝しているように感じますね。それで、こちらまで恥ずかしくなる。

 自然はそのままで美しいからそのまま描く、建物の窓の数や寸法比率はそのまま嘘をつかずに描く、とにかく、嘘をつかずに細部から描いていけば、真理に到達する、下手に感情を入れたり情感に流されると絵は崩れてしまう。どうも、そんなふうに思っているらしい。対象に完全に従属している。自分は自然の忠実な使者である、とでも思っているのでしょう。これは、大きな間違いですね。

 よく、「自然に描く」というフレーズを耳にするけれど、表現の中の自然は生の自然ではないのです。人間という器を通して投影された自然で、これは原形の自然と比べると不自然なものなんです。向日葵そのものを見た感想とゴッホの向日葵見た感想のなんともいえない、しかし明らかな違いは一体何なのか。生の花は有史の原初で人間が決別した自然そのものへのノスタルジーで、ゴッホの花は悩みと喜び持つ人間のフィルターをとおした「人間の花」です。人間は自然の中から飛び出して人間となった。自然はそこから恩恵と脅威うける「対象」となった。自然界の異端であり落第生であり裏切り者である・・・と私は思っています。そのためか、人間が自然をそのまま写そうと傲慢にも思えば思うほど、自然のほうが遠ざかって行くようです。そのリアルさを表現しようと思えば、自分をそこに織り込んでいかなければならない。絵のなかの自然とか真実は科学的実証とは次元の異なったものです。描く者、観る者のあくまでも個人的な精神的な領域で成り立つものです。生の自然を自分の精神・肉体をとおして再現表現する。もはやそれは自然そのものではない。その誤差というか差異というか、その間隙に作者の存在や観る者の創造力が入っていく。そこに発生するのが芸術的な意味での「美」といえるでしょう。なんと不可思議な行為でしょうね。

 自然そのものを見たければ野外に出ていけばいいし、生花を買ってくればいい。わざわざ絵になった自然を観ようというのは、そこに全く異なった要素を求めているからです。好き者の世界なんですよ。絵を見つめてそこに人間の宿命とか罪、愛、そして崇高ささえも確かめようとする高尚な「遊び」なんです。



岩崎 雄造