湧虫雑記


男と女と芸術と


 生き物であるかぎり生殖というしごとがあって、雌雄同体でもない人間は男と女の種類が必要で、それぞれ差異ができてきて特性も異なってきたわけで、社会の変容に伴って社会的な権利はほぼ対等になったことは、たいへん結構なこと。しかし、人間という集合もあれば男・女という集合も、なんの偏見もなしに成立します。エロスと呼ばれる愛はこの集合の間で生まれる。たいへん重要な認識ですね。生命の根幹と繋がっている。だから、男の特性と女の特性は常に確認し理解されなければならないと思います。第一この作業は身近かで楽しい。男らしさとか女らしさを否定してしまうと、世界から色が消えていまいそうだもの。

 ただ、それと絵がどんなふうに関係してくるかとなると、やや問題が微妙になってくる。これはどうも「日常と非日常」という点と関係しているようです。前にも書いていますが、芸術自体が非日常に属するものだから、どうも男に分があるようです。男には本来「根」が無い。女は出産と子供へのより本能的な愛情から育児という生物的なしごとを持っている。それは、社会というものがなくても成立するしごとなので、男のしごとより一層根源的であって、所詮男には太刀打ちできないものです。女は子供を守り環境をより安全にと望み、変化を排して「家」を形成していく。こんなふうに言うと、昨今、女性に糾弾されそうだし、事実スウエーデンなどでは男女が同等に育児しているので、もはや頑な考えと言えるかもしれないが、なにが何でも北欧最高、アメリカ万歳なんていうのも私なんぞから見れば、空しく性急なことと映るので、あえて言わせてもらっているのですが、とにかく、世界の基盤というか、地盤というか拠って立つところの基は、女が作っているとしか思えません。生活という日常に限りなく近しく生きている。その点男は、あとは、やることを見つけなければならない。まともな生産・採集・狩猟に従事することもあれば、国境を越えて戦争を仕掛けに行くこともある。そんなのしんどいとなれば、ならずものや博打打ちあるいは芸人になってへらへら生きていこうということになる。根がない分、しごとの種類も多岐に渡ってきたと言えるでしょう。そして、ほとんどの男は、幾分の劣等感をもって、日常というものを生きることにおいては、とうてい女にはかなわないことが身に染みて分かっているのです。

 男よ、どうしたらいいの?の叫びが、あちらこちらから聞こえてくる。なにかやり甲斐のあるしごとがしたい。そう思って当然。まともな男はちゃんと社会につながった生産的なしごとに身を捧げる。あるいは、人を楽しませ喜ばせるしごとにつくでしょう。家庭作りにも参加し、支えていく。それでも、そんな生き方をどうも潔しではない、などと思ってしまう輩がいる。野放図というか、放縦というか、どうしても荒々しい、あるいは謎に満ちた部分への渇望のようなもの、それを平和裏に満たす分野は、肉体に近くやや好戦的なもので「スポーツ」。まあ、これは元来戦さの変形みたいなものですが、一方、精神に近く想像力がいきるものでは「芸術」ということになります。

 勿論、女性でも芸術の分野で活動する人はいるし、立派な芸術家も数多存在しますが、女性はあくまでも日常という「地」を踏んで立っているようです。自分という植木鉢から芽を出し、しっかり幹・枝・葉を伸ばしていく。着実である。ただし、芸術というのは厄介なもので、その「着実さ」が限界になることが、往々にして起こります。平たく言えば「バカさ」に乏しいのかな。結局人物そのものと同じで、誠意に満ち勤勉な人は信頼はできるが、つきあって面白いかといえば、そうとは限らない。少々馬鹿をしている人に妙味がある場合もある。そんなふうに単純に言うのがいけないなら、こんなのはどうだろう。誠意に満ち、勤勉な面もあり、繊細で優しい人が、時折信じられない愚かな行為に走ったり、大胆な計画を実行に移したりすれば、あらっと思いますね。根本的に男は理不尽なところがあって、教育や社会的な縛りで身をしっかり律していても、常にそれから解放されよう、または逸脱してやろうという内のエネルギーを持っているのです。芸術家などはそれの塊りみたいなものです。一種の狂気のようで、強さのようで、結局は社会には大して役立つものではないのですが、それがなくなったとしたら、全体がどことなく病に罹ったようで、気味が悪くなる、そんな要素でしょう。芸術もそのな要素をふくんで初めて芯が通るというか、深みが出るというか、色彩が加わるというか。



岩崎 雄造