湧虫雑記


「美学」の壊滅


 もののあわれ・わび・さび・武士道・粋・気質(かたぎ)・義理人情など、生活する人間としてその行動を糺す基準のようなものが、ちょっと待ってよ、こんなにもやせ細ってしまったの、と呆れるような、そんな世の中になってしまって、まだまだその傾向が加速しているようなので、まともな神経では、もう失望しかないように感じる。町はきれいになったし道行く老若男女は、まあそこそこのものを毎日食っているような様子で、スーパーマーケットももの買う人で賑わって、一見丸く収まっているように見える。

 民の平安はかつてないほど叶えられた。そう思わなければいけないでしょう。でも、なんとかすかすの社会だろう。なんとつまらない町だろう。なんと生気の抜けた人々と空元気の人々達だろう。こんなものを見るために、昭和のあの混沌の中を生きてきたのではないし、世界や社会の軋轢のためにあたらその命を捧げてきた多くの人々にとっては、あの世で臍も噛み切れない悔しさ虚しさで、さぞかしいっぱいでしょう。

 もともと性善説と人間の理性を過信する上に成り立った共産主義が崩壊して、情け無用の近代的資本主義が独歩するに至って、多くの人は本当の思考をするばかばかしさに気付いたようで、まああとは残り少ない余生をおもしろおかしく、冷暖房の効いた住居で、一食でも多く旨いものを食った方が勝ちだ、なんてごく分かりやすい哲学にのっとって生きていこうと、まっしぐらに虚無の洞穴に突っ込んで行く。パナホームやへーべルハウスやダイワハウスのあの薄っぺらい外壁材のように、虚偽と吝嗇と頑迷さに満ちたつるつるの容器の中で、自分の人生が成功か失敗だったか、ぼんやり考えている。本当は、そんなものに満足していないんでしょう。でも、もう今更寝返りを打つのは、なんだか背中が寒くなりそうで、首まで布団をかむっている。あとは心身共に痺れてボケてもうそこから先はどうにもならないし、考えてもしかたないドリームワールドで、人生とはそんなものとの諦観を持つまでの修行もしていないので、なんだかおかしいな、なんだか変だぞ、というような呆け顔でご臨終を迎える。

 これじゃあ、人間としてちょっとねえ・・・と思ったかどうだか、安倍首相までが「美しい日本」などと、政治家にはお門違いな美学的雰囲気をこめた政治スローガンを掲げてしまった。なんだか、ピンとこないのは当たり前。当の国民の大多数は、安楽と快楽と自己愛の世界に漂っているんだもの。いきなり美学なんてねえ。よっぽどの物好きか、変人の戯言よ。喫茶店に入ってごらん。8割が「熟女」の客で、まあ五月蠅いこと。今が一番幸せや、とかうちは何でも食べるとかを自慢し、隣人のちょっとした非常識を非常識な熱弁で糾弾する「人生の猛者」で溢れ返っている。元気でありさえすれば死なないんだから。元気がなりよりで、元気や健康の邪魔をするやつは許さない、そう、元気こそ美学である。元気や健康ほど美しいものはない。病気や貧乏が悪で侮蔑と言わないまでも、嫌悪の対象だ。・・・・これは、じつにりっぱな「美学」ではないか、と密かに思っている人がしだいに増えているのではないでしょうか。罪がないといえばないのですが、なんだかばかみたいでもあるし、どこかに恐ろしいものも感じる。

 はっきり言って、元気や健康からある種の正常さは生まれても、心に食い込む美は生まれない。武士道のなかの無理強い、粋のなかの逆説、気質の頑なさ、義理人情の理不尽、美学にはどこか不幸と自虐の要素があって、それがなぜか美を生み出す助けになっている。なんとも因果なものです。なんのために物好きにもそんなものを取り込むのか、謎ですね。むしろ、底無しの幸せや健康さがあれば、美なんぞは必要ないのでしょう。醜さや不快というものが無いのだから、美を望む必要もない。

 ひょっとしたら、今この現在とは、美や美学を必要としない程、みんなが健康で幸せなんだ。有史以来初めての快挙を、アメリカ資本主義が実現したんだ。凄い、偉い、素晴らしい世界、ぴかぴかのハイブリットカー、六本木ヒルズ、ひきこもり、喫茶店を占拠するばばあども、ヨドバシカメラ、ヒアルロンサン、倖田来未、鬱病、子供をなぶり殺す親、腐りかけた減量で製品を造る製菓会社・・・ああなんとバラエテイーに富んだ社会を作り上げてくれたもんだ。みんなが主人公、タカをくくればなにも怖くない。なにしろ健康に気を付けていさえすれば、死なないんだから。




岩崎 雄造