湧虫雑記


ばかをすること


 NHKにドキュメント72hというのがあって、真夜中なんとなく見ていると、「バッテイングセンターのホームラン王」と題して、心齋橋のとあるバッテイングセンターに通う70歳の男性を淡々と取材していた。

 鋳物の型を造る職人を勤め上げ、今は40歳を越えた時から始めたバッテイングセンターの打ち込みを、毎日の日課になさってる。ところが、これが凄い。見事なミートですべてがライナーで飛び、正面上方の小さなホームランの的を攻める。毎日数回命中する。凄まじいくらいの迫力であった。そのセンターの断トツのホームラン数を叩き出している。御本人はというと、これが実に温厚・実直の初老で体格も標準的でごく平凡な男性である。もっと凄いのが、自転車で毎日高槻から淀川沿いに片道2時間半かけて通われるという。ユニフォームなどは着ていない。ごく普通の平服だ。

 とつとつと語られたのは、自分は何をやっても半人前で人に助けられてやってこれたけれど、このバッテイングだけは自分だけのもんやから、一人前と思えるんですわ云々・・・。子供がいないご夫婦で、奥様もそんなご主人を尊敬というより愛しさの目で御覧になっている。・・・こんな話は作ってできるようなものではない。やっていることはたかがバッテイングセンターのバッテイングである。子供の遊びと言ってもいい。何を生み出すのでもない。人助けと言うのでもない。正しいことをやってますと、胸を張るようなものでもない。社会的な意義などとまったく無縁な領域で、その人の一生の中で、だれにも冒されない、だれにも迷惑をかけない、しかしだれにもそのすごさが分かる。そしてご本人のプライドはいやらしく外部に放射されるのではなく、ご本人の心の中で成就する。その意味で純粋なのです。

 このバッテイングセンターが経営の不振から閉じることになった。世の趨勢が、彼のささやかな「舞台」を消し去ろうとしている。それも来るべくして来る流れ。一人の平凡過ぎるほど平凡な一男性にその人生の後半に小さくスポットライトが当たった舞台。範を越えず実直に歩まれた人に与えられた神からの贈物。この世もまんざら悪くないと思わせてくれますね。これが一生まじめに誠実に働き、引退してからは自分の孫に囲まれて、頼りがいもあるし尊敬を集めてむだなことは一切しない、そんな一生なら、無論大変立派なのだけど、立派すぎてすきがなくて、こちらが気押されてなんだかしんどい。社会の中で自分の役割を務めるのは当然のことだけど、人間、特に男は、人生のどこかの時点で「むだ」や「ばか」をこの人のようにさらっと、しかも真剣にやりたいものです。ところが、これが意外と難しい。ともすると、世のため人のためという堅苦しさや、金や名誉の、虚栄心をくすぐられる行為に走りがちで結局は妙な義務感や道徳観に縛られて、大切な老境が没個性なものになってしまう。せっかく長く生きてきたのだから、経験やしたたかさを活かして、そのへんの青二才が思いもつかない「ばか」をしてほしい。ずっと世の中が面白くなるでしょう。じじ・ばばが集まってカラオケ大会なんぞをしているから若いもんの失笑と軽蔑を買い、果てには俺
らも年取ったらあないなんのか、といった失望を誘発するのです。しんどいけど、やはりどこかで体張って、ばかやりたい。勲章などに目もくれず、陰では修羅場を演じていても、いかにもさわやかに、こんなつまらないことにも深み・美しさ・魅力があるんだと、だれに教えるともなく気付かせられたら素晴らしいでしょう。

 絵というのもそんなものでしょう。大きなバカの領域です。勲章などもらっては、それこそ本当に社会の生産的な分野や福祉や科学の分野で献身された方々に申し訳ない。役に立たないから素直に受け入れられる。だからこそ、根本に人間に関する健やかな省察が要る。健やかさのために自身の内部に人に限らず、他者に対する愛や敬意が要る。それに益々磨きをかけるために又描く、そんなふうに絵描きは生きたい。



岩崎 雄造