おおかた教育とか修業とか鍛練というのは、「完璧・パーフェクト」を目標に行われるもので、とくにそのような苦行に晒される純真な若者たちは、無意識に「完全さ」への信仰を持っている。やや頑なな理想への志向や、批判精神もそこから出てくるし、それが実は大変貴重で、世の中を変えていく原動力にもなる。ただ、そんな若者も、現実の世の中に出たら、次第に人の世の複雑混沌の渦に巻かれ、彼等の学んだ「完璧」とはあくまで理論上のことで、現実は理論という包装紙では包み切れないし、がんばって押し通そうとしたところで、自分になんのメリットも無いことにすぐに気付いて、おじさんやおばさんへと変貌していく。
最近「ファジー理論」というのが流行って、よく解らないんだけれど、不完全さを前提に組み立てられた、ソフトな理論らしい。一定の範囲は設定しても、後はあえて不定状態にしておいて、状況によってよりベタ−な反応を可能にしようとするものらしい。印象として、なんだか人間の頭に近いようだ。天才的な頭脳の持ち主でさえ、大脳の40%位しか使ってないらしい。考えようによっては頼もしい。人間にはまだまだ可能性があるということになるし、現在の状態はいかにも不完全とも言える。そりゃ、間違いを起こして当然。世界を隅々見ればそのとおりのことが、あちらこちらで起こっている。完璧主義で事を運ぶと、まあ科学技術の分野は別として、ナチスや禁酒法や人種差別や数々のテロルのような、とんでもない間違いへ突き進む危険性がありましょう。
それなら、最初から「欠点・不完全さ」を認めてしまったらどうでしょう。と言うよりむしろ、欠点こそ魅力ではなかろうか、などと最近は思っています。大変単純な考えですが、この単純さもじゅうぶん魅力になりえる。男でも女でもちょっと崩れているほうがそそられるし、おっちょこちょいは可愛げがあるし、できの悪い子ほど可愛いなどと失礼な言い方もあって、どうも人間が愛でる理由や動機はどうも一筋縄ではいかない。とはいえ、崩れっぱなしやどこまでもおっちょこちょいでいいか、というとそうでもない。そこには、絶妙の「加減・塩梅」があって、やはりべたべたであってはいけないようです。それでも、有能でスキがなく完璧な人物より多くの愛をえることはたしかでしょう。
絵の話に戻れば、完璧に近い絵に果たして魅力があるだろうか、という問いになります。たしかに、ラファエロやベラスケス、カラバッジョ、アングル、ミケランジェロなどの仕事は、完璧と言っていいでしょう。それでありながら、僅かな「歪み」の中に確かな個性を注入している。彼等の恐ろしいほどの才能がそんな離れ技を可能にしたのです。ただ、画家は立派な職業で職人としての意識が強かったため、作品の「品質」を高めるためどうしてもそこに完璧への要素が含まれる。粗雑さとか思い切った大胆さは論外だった。ところが、マネあたりからちょっと様子が変ってきたようです。市民社会が成熟してきた分、ものの見方も多様化してきて、単純に完璧な表現のみを評価する傾向は薄れてきました。その代わりに、表現の「質」に目を向けるようになってきた。作家も伸び伸びと自身の問題意識を表に出して制作するようになったのです。バルビゾン派はやや明度を落とし、装飾を排した素朴な人間生活の原点のような作品を残し、印象派は光と色彩を解放し、エコール・ド・パリの百花繚乱へと結実する。それらの激しい動きの中では、表現の中身に益々力が注がれ、絵肌も均一性を欠き、タッチがより奔放になって、細部を見ると完璧さとは縁のない一見して粗雑とも見える作品が多くなってきます。しかし、そこに表現の「生気」が加わって、それまでに無い魅力が確かに生まれたと言えましょう。ゴッホやモネや佐伯の作品を見るとその魅力に満ちています。絵画がぐっと身近に感じられる。一種の「不完全さ」の中に作家の体温や生々しい鼓動が感じられるようになったのです。
おおよそ、個性とか魅力というのは、不完全や欠点の発する力のような気がします。作家の持つ宿命的な特質、それはほとんどの場合彼等の「弱点」なのですが、それが磨かれた技術と思想・意思によってテーマと奇跡的で神秘的な調和を見せて、芸術に結晶するのです。優れた作品ほど、画面から作家の人間としての弱さ、ナイーブな面が美しく伝わってくる。そんな「弱さ」が見えない作品は、結局どこかで強引に自我を押し出したか、もともと作家自身にそれほどのデリカシーや気品というものが無いということになる。
岩崎 雄造
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