湧虫雑記


職人と芸術家


 自分では絶対に職人にはなれないと確信している。絶対に無理である。体の中の無意識の領域に、正確な反復を拒否するエネルギーが蠢いている。一枚の絵を一年かかって仕上げることもあるけれど、それはあーでもない、こーでもないと失敗と試行を重ねてのことで、正当な手順を重ねてじっくり完成へ近付けていくということが、とてもでないけれどできない。可能な限り四、五日以内に仕上げたい。当然技法もそれに向いたものになる。ひとつには、てこずって時間がかかることが多く、その場合あまり出来が良くなくて、自分で見てもなんだか不快な気分になるからである。とかなんとか言ってはいるが、要は辛抱が足りない。

 職人的な厳しさを要する工芸やデザインの分野は、自分からかなり離れたものと思っている。こんなことを言うと叱られそうだけれど、工芸やデザインは芸術ではないと思っています。勿論、突き抜けて素晴らしいものは、十分芸術としての魅力を持ちますが、むしろそれが目的ではない。曖昧さや謎や歪みがあってはならない世界で、手順や道具の扱いなどほぼ完成された技をしっかりと踏まえて作っていく。作る前の意匠の段階で作者のインスピレーションが込められるので、そこに奔放な発想や深い情念などが込められれば、作品に芸術的な味わいが出る。しかし、作家は自身に芸術家よりも、むしろ「職人」の呼称を望むでしょう。それは正当なプライドであり、中途半端で気紛れで役立たずな所謂絵画芸術とは一線を画したいはずです。それでいいのです。最初から目的が明確で、人の道具として生活の潤いとして供されることを念じて作られる。たまから覚悟と意志がある。

 で、絵画作品はどうか。古典派や日本画の場合は別として、洋画はどうも出来方が特殊のように思えます。出発点に何もない。むしろそのほうがいい。よく言われる「無の境地」というのともちょっと違う。対象を前に作家自身が壊れたような、崩れたような、それを必死でどこかで支えながら画布に向かう。支えているのは、おそらく「技術」と呼ばれるもの。頭や心は後からついてくるような感じがする。絵ができてくるに従って次第に崩れた自分が再構築されていく、そんなことかな、と思っています。といって、できた作品をどう供するかと言われても、はたと困る。描いてしまったのだから、どうにもしかたない。どうしても欲しいと言うひとが出てくれば売るし、売れなければ置いておく。ただ、それだけのことです。作品に関しての意志というものがどうも稀薄なのです。特別な作品はあっても、仕上げてしまうともう手が届かない、どうしようもない。ものの役に立つものでもない。気に入って眺めてくれるひとの中で生きる。そのひとが亡くなれば、また無にもどる。次に眺めてもらうひとが出てくるのを待つ。出てこなければごみとして消える。絵は「使えない」ことを前提として、ごくわがままに作られる実に頼りない、奇妙なものなのです。そこが解っているので、絵描きは職人に比べ、当然いい加減なところがあって、むしろそれをけっこう本気で大切にしている。なんだかやくざっぽいところがある、と言えば又まじめな画家達に叱られそうだけど、そんな弱点とか欠点を抱えながら少し不細工に格好悪く一生を終えればいいのではないでしょうか。いい職人さん達のように、「全うする」ということがどうも難しく、いい画家ほど思い半ばにして、あっけなく逝ってしまうのだもの。




岩崎 雄造