嫌悪感は正直なものです。I like it.と言うより、I dislike it. と言うほうが明らかに多くの心的エネルギーが要る。「好きです」はお世辞や社交辞令で言えるけど、「嫌いです」は本心から出ることが多い。弛緩していても「好き」は見えるけど、「嫌い」には常に緊張が伴う。何が好き、と訊かれるより、何が嫌いと訊かれたほうが自分を説明しやすい。かなり臍曲りの発想だが、私はその人の嫌いなものや弱点に、より興味がある。個性が見えやすい。純粋に生理的な嫌悪感は、無意識の領域が大きく関係しているので、どうしようもないが、嫌いな人間のタイプとか振るまいとか、とにかく人間に関することについての嫌悪感は、その人自身を正確に物語る。
ということで、まず私の嫌いなものを挙げてみよう。まず吝嗇。これはいけない。自分がいつまでも生きるものと錯覚しているくせに、ビクビクして、愚かなわりに偉そうにしている。大体この性向の人間は、自分がいつまでも生きると思い込んでいるか、生きてる間にできるだけ自分のために、何をするというのでもないのだが金を身に纏っておきたいと思っている。単純で間抜けていて醜い。
そして、大方の絵描き。体力もなく、知力もなく、ただ絵がそこそこ描けるという一点にしがみついて、おばはん連中を従え、先生と呼ばれるささやかな快感をちびちびかじって年老いていく。いかにも自分は自由人ですといった風体でかっ歩しながら、あわよくば近付いてくる若い娘の尻でも触ってやろうと思っていても、いやいや自分は文化人なのだから、できるだけインテリっぽく振る舞わなければと思いつつ、あっさりふられれば、半べそをかいて泣き脅しで小娘を引き止めようとしては、現実の権化である連れ合いの怖い顔を想像してしまう。なんだかできの悪い小学生がそのまま歳をとったようで、そこを可愛いなどという輩もいるにはいるらしいが、劣性遺伝の産物のようでみすぼらしいのである。絵描きはかっこよくないといかんのよ。やっていることが、とにかく陰気なんだから。理学部の大学院生のようなぼっちゃん絵描きを見ていると、実に「虫酸」がはしるのです。
岩崎 雄造
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