先日医者にある病気を告知され、少々ショックを受けた。入院も手術も必要らしい。悪くすれば悪くするし、運が良ければ完治する。そんなものらしい。ところが、本人の私はほぼ従来の生活をするのに困難は感じていない。たいした疲れもなければ、痛みもなく発熱もない。今まで体にメスを入れたこともなければ、入院というものもしたことがない。病気というものに実感が沸かない。肉親を何人も見送ってきたので、生老病死は当然のことと受け止めてはいるが、「自分」の病気は初体験である。家人はかなり動揺しているが、私自身はいつもとあまり変わらない心境なのである。
それほどに、このところの気分が憂鬱であったとも言える。なにをしても芳しくなく、なにを見ても、なにを考えても面白くない。純粋に美しいものだけが辛うじて心に入ってくる。それを何も考えずに描いているときだけ、辛うじて生きている実感がある。どうもひどい状態で、一日の大半の時間はつまらない小銭計算と世事につぶされてしまう。完全に「loser 」(負け犬)の気持ちになっていた。そんなときに病気の告知をされても、少なくとも「大ショック」は感じない。少々のショックですんだ訳である。
ともあれ、これで病気の一つも抱えているりっぱな「老人」となった。どこかがすっきりしたような気持ちである。経済力もなく体力もさほどのものではない、となればどちらかといえば「弱者」である。今まで振回していた傲慢さを身の内に飼っておくことはもはや不可能のように思える。自分を元気づけるために放埒に遊ばせていた「若さ」も羞恥してひっ込んでしまいそうだ。どうも、ここからは今までとは異なった知恵というか、諦めと言うか、覚悟というか、そのようなものが要りそうだ。今までの人生は結局そのための準備の期間だったのかと思えなくもない。最後の「大きな門」が目前にあるのにやっと気付いたかのような心境である。
それまで疾走するよう駆け抜ける道程から、ここからは絶対に駆けてはならぬ、とこの門の上の掲板には書かれてある。Nessunn dorma(寝てはならぬ)ならぬ、Nessun corri( 駆けてはならぬ)である。疾風のように怒濤のように駆けるような道程ではないよ。普通に歩きなさい。君はまだトム・クルーズの役を演じるつもりかね。君にあう役はよくて半分引退している老弁護士か頑固で無口な職人か高速道路の料金所の係員くらいのものだよ、と上のほうから声がする。そう言われると、なるほどと思う。少なくとも、人間一人を役者に喩えるならば、自身の役柄をもっと冷静に、適切に考えなさい、ということだろう。ところがさて、困ったことにそのへんのことをまったく考えていなかったのである。
そこで、なんの脈絡もなく、マーラーの5番を久し振りで聴いてみようとなった。最近聴いたのは、すぎもとまさとの「吾亦紅」で、これはこれでいい歌だった。マーラーの5番は有名な第4楽章に魅せられて聴き始めたが、ここ5年ほどはご無沙汰であった。なぜにご無沙汰していたかといえば、このアダージェットの楽章が実に美しすぎて、もはやこの世のものと感じられないからで、早い話が現実から知らず知らず逃避してしまっている。というより、こちらがその気でなくてもぐいぐいあの世へ引っ張られるように感じるからであろう。この世には触れては危険なほどの美というものが存在するようにさえ思わせる。そんなわけで、遠ざかっていたようだ。つまり少々恐ろしかったわけである。ラベルのピアノ協奏曲の2楽章も同じような印象を与えるが、こちらは少し田舎臭さがあって、恐ろしいとまではいかない。・・・・久し振りで聴いてみた。やはり、いい。
人生も最終楽章に入った。交響曲ではアレグロもありがちではあるが、人生の第4幕は、やはりアダージョかアンダンテがしっくりくる。滔々と流れる川のように、あるいはゆったり歩む年老いた行人のように。あらゆる「この世のもの」を心の中で、自分自身のものとして暖めながら、結局は何ひとつ自分のものとして所有することなく、いさぎよく、最後は自分の魂だけを携えて流れ行けたら、どんなにか本望であることよ、などと今のところは思っている。
MAY,2008
岩崎 雄造
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