湧虫雑記


上から腐ってまんな


 8月に入ると、恒例と言っては不謹慎ではあるが、終戦特集が連夜のように放送される。今年は「兵士たちの証言」というシリーズで戦争末期の激戦地の様子を実に生々しく再現し、回顧する番組であった。ペリリュー島・沖縄・インパールと連夜観た。実に痛々しい惨状をその何分の一かは想像しながら、ほんの僅かでも鎮魂の祈りを心に、食い入るように観た。戦後派である私にはどう手を伸ばしても届かない出来事ではあるが、同じく人間として生を受けた若者が、かくも無残に、尊厳も無く死んでいったかを知ると、心衷より祈らざるをえない。彼等の命に少しでも尊厳を捧げられるとすれば、今生きる我々の「祈り」しかない。

 深夜の放送であったので、2時位に終わった。ところがである。その後の番組がこれまた連続シリーズで、アニメ「メジャー」ときた。例の類型的なアニメ主人公の顔が映りやおら投球する。内容は観ていないが、おそらく高校野球の選手がメジャー目指して辛苦を乗り越えていく・・・そんなものであろう。NHKは大体このあたりの時間は「映像散歩」や「世界遺産」をやるものである。それを選りによって「アニメ」とは、実際肉親を戦争で亡くされた人達が観たらどう思っただろう。たかが番組編成の結果ではないか・・・と言ってしまえばそれまで。余韻とか節操とか、そんな「デリカシー」というものが無い。取りようによっては、「さあ、悲惨なお話はこれまで。ここからは、頭をあまり使わずわかりやすいアニメドラマを楽しみましょう」とでも言いたいの、と思いたくなる。天下のNHKがこの程度では、推して測るべし。トリノオリンピックの開会式の中継、民放の合同番組だったと思うが、いよいよパバロッティーの登場、引退後久し振り病をおしての登場、しかも曲目は「寝てはならぬ」、荒川さんの演技のバックに使われている曲、前奏が始まり・・・NESSUN DORMA〜と歌い出したところで、「はーい、日本のスタジオでーす」ときた。私は「殺意」を感じ、ひとり悶絶した。要はレベルの問題だ。ここまでレベルが落ちたのである。

 ものの道理とかものの冥利とか、すこし以前までお年寄りがよく口にされていた。「そら、やったらあかんやろ」という感覚である。それがとうのお年寄り達とともに、どこかへふっ飛んでいったかのようである。若者達が非常識な行動をとるのはある意味当然である。無茶をするものだ。ところが、このところ物の分かったはずの人間たちが、信じられないバカをする。枚挙する必要もないだろう。そして、遂に行政やメディアまでも、呆けているとしか思えない愚挙をやらかして、たいした反省もしていない。「腹切ってひっ込め」と言いたい輩が、醜い厚顔を晒している。「こんな顔は子供達に見せたらあかんで」とテレビ画面を見ながら感じることが実に多い。どうしようもない。「閉塞感」に満ちている。

 なら、われら戦後民主主義の申し子たる団塊の世代が、リタイヤーもしたことだし、学園紛争のころの「たぎる血潮」をもう一度思い出して、新しい文化を創りだし、あるいは世の不正を身を投げ出して糾して行くのか、といえば、それはとんでもない。ご本人たちは、忘れていた「自己実現」をどうしてやらかしてこましたろか、と近くのチンケな山に登ってみたり、決まってチェックのシャツにリュックサック、スーパーで奥さんに買ってもらったスニーカーをはいて、入場無料の素人落語会にでも行くのか、街角に家畜のような善良な表情で出没する。こら、もうあかんわけですわ。少なくとも、リタイヤー族は余生のいくらかの部分、younger generationの見本として、「人間」を本気で演じる義務がある。そんな緊張感が欠けているのです。

 若い人に言いたいよ。「この世は糞だ。ただし、君達はまだ糞になる前の宝石だ。一切上の世代の言うことは聞くな。しっかり、その目であらゆるものを本当にしっかりと見つめて、こうだと思えばとことん苦労してもやり切ることだ。安易に『自分たちの世界』なんて作って収まってるんやないよ。そんなことでは、リュックサックのおっさん達と同じだ。そして、それでも失敗したら、失敗なりの人生の主人公をかっこよく演じ切ることだ。たとえ底辺で蠢こうと、恥じることはない。この世は上から腐ってくるものよ。」


2008、8月




岩崎 雄造