湧虫雑記


煙 草


 いけませんなあ、これがやめられない。今夏の入院の二週間、当然きっぱりと禁煙した。二十歳前から吸い出して四十余年、一時とも喫煙は絶ったことはないし、また絶とうとも思わなかった。今回は完全禁煙の大病院で、一切スキもなく当初から禁煙は覚悟していたし、その気になれば、なんとか吸わずに辛抱できた。その代わりというべきか、やたら飴・キャラメルの類いをなめつづけていた。このまま糖尿でも患うのではと思うほどであった。
 「あんた、退院したらたばこやめるでしょ」と妻は詰め寄る。
 「いいや、絶対にやめない。本数は減らす」と私もきっぱり。
 その通りタール量を今までの半分のに替えて、本数も激減させてはいる。従って一本一本が旨い。要はこの件に関して「救いようが無い」のである。皮肉なことに、今のところ肺には腫瘍らしきものは見つかっていない。
 飛行機が禁煙になって、寝るわ寝るわ。吸えたころは十時間は下調べができたものである。代名詞の用法をもう一度おさらいしたり、時刻表を検討したり、とにかく有益に移動時間は過ぎていった。ぼやけた頭を覚醒させるのに喫煙は不可欠なのである。というより、因果にもそんな肉体になってしまっているということだ。それにしても、このところの禁煙ゾーン拡大運動の勢いは凄い。喫茶店でも禁煙のところがあって、ガラス越しに店内を見れば、ほとんどが女性客で、そろってお茶を飲むことに専心している。なんとも馴染みのない眺めだなあと思う。「環状線全線禁煙実施」と勝ち誇ったようなポスターが駅構内にはられている。ということは、申し訳のようにホームの端に置かれていた灰皿が取り払われたのである。もうここまでくると、喫煙は「半社会的行動」と認められたも同然である。当の喫煙者はたいした悪意もないので、反論もしない。次第に「肩身」を狭めている。何の益もなく害のみの嗜好にどんなexcuseが可能というのだろう。おまけに「副流煙」は多大に周囲の人間に影響を与える、ということになれば、匕首を喉元に突き付けられて絶体絶命の追い詰められ状態。もはや居直るしかない。
 居直るとしても、喫煙の正当性を訴える訳でもない。まあ、世間に向かって「許しを乞う」ための言い種にしかならない。当然「正論」からはほど遠い。第一には自身、長生きにたいして執着が無いということか。第二には、他人に対する悪影響という点でも、車による空気汚染や昨今の食品問題の害に比べれば、まだ目に見えるだけましちゃうのん、と弱々しく口籠ろう。後に残るのは精神的な領域で、ここをちょっと声を出して訴えるしかない。
 気分転換に抜群の効果があるとか、精神を安定させるのに比較的安上がりの方法であるとか・・・しかしこれもまだまだ弱い。「悪癖にも一分の理」というのはどうだろう。体の健康があるなら、精神の健康というのがあってもいいでしょう。なら、精神の健康とは、となると体ほど単純ではない。北朝鮮の愛国者のようにひとつの教条に見事に従って、生き生きと目を輝かすような精神状態もあれば、善き老農夫のように日々淡々と大地を耕し、天の恵みに感謝する、あるいは実直な職人工のように正しい日用の具を精魂込めて作り、それを一生の天職と考える、そんな健全な精神もある。どうも標準的なパターンがない。敏感なのが健康かといえば、そうでもないし、鈍感が健康かとなれば、そうも言い切れない。要は「その人らしくある」ことではないか。こう言うとなんだか個人主義が暴走しそうで嫌なんだけど、そこに、人の世からちょっと浮いたような「高み」にある、「善きもの」とか「美」とか「愛」とかの形ないものに対する「心」があれば、それでいいと思う。私のように俗世に四搦みながら身の程知らずにもキャンバスに「あの世」をまさぐる者は、結局のところ「この世」と「あの世」を無秩序に行ったり来りして、とても健全とは言えないけれども、そんな風にしてたわごとの絵を描いていく。この世とあの世の間にはやはりある種の「境界」があって、それを越えるたびに我に返る「真空」の時間が要る。ちょっとした「放心」を作らねばならない。何もなしにぼっとするわけにもいかない。ちょっとした小道具か、言い訳がましいポーズがあれば格好が付く。その程度のものである。
 だめなことをだめと判りながらやる、害と知りつつやりたい、そんな弱さをちょっと黙認するのも、社会の余裕というやつでしょ?・・・なんて、ほんとにだめな言い訳というか、弱音で申し訳ない。

                     2008, September


岩崎 雄造