湧虫雑記


画家なんて呼ばれたら


 人間なんてもともと頼りないもんで、ふわふわ浮いたようで、ついつい「重り」が欲しくなるのか、肩書きが付くとほっと安心する、というか納得する。「あの人、何してはんの?」・・・「さあ、いろいろやってはるらしいで」となれば、まったくもって、怪しい限り。「何もしてはれへんよ」では、実に心細い。少なくとも、職業名は欲しくなる。

 ちょっとした書類の職業欄にさてどう記入しようか、と悩むことがある。一時塾を経営していたころは「自営業」としていたが、なんだかぼんやりしていて気持ちが悪かった。経営者としての自分を認めていなかったからか、魚屋のおっさんにでもなったかのような気分で、しっくりこない。現在では「講師」と記入することにしている。これはまだあっさりとしていて、罪がない。しかし、絶対に「画家」と記入することはない。
 自分の絵がいわゆる「マーケット」に乗っているわけでもなく、注文がどんどん入ってくるわけでもない。毎日自分のペースで描いていて作品が溜まれば、ご厚意で個展を開いてもらって、何かの拍子で売ることもある、そんな呑気な立場である。「だから、あんたの絵は甘いんだ」なんていわれることもあるが、大きなお世話であって、そんな恫喝には「なめんなよ」とやりかえす。自分の甘さは、自分が一番よく知っている。知った上で、やってるんだもの、おまえはばかか?と言いたくなる。困るのは「趣味で絵を?」と訊かれる時で、「はい」とも「いいえ」とも言いがたく、「趣味というには、ちょっと入り過ぎてますかねえ」と答える。「プロの画家です」などと答えるバックグラウンドが皆無だと、自分では思っている。

 では、「画家」という肩書きが欲しいかというと、それが全く欲しくないのである。画家・岩ア雄造というのが、どうも居心地悪く響く。ただの岩ア雄造でいい。とにかく、画家というものがイメージできない。若かったころは、周囲にいわゆる「画家」と呼べる人がたくさんいた。それがこのところ全く姿を消してしまった。今周囲に見掛けるのは、公募団体に所属しながら、精勤にカルチャーを掛け持ちして走り回っている人、デザイナーに飽きて小器用な水彩を百貨店に卸して悦に入っている人、大学の講師や教授にめでたく収まっている人。彼等は決して画家に見えない。なんか、ちょっと緩い人かなという印象を受けることが多いのである。困ったことに、名前は上げられないが、日本の洋画界を代表するある売れっ子画家が、テレビなどに出た日には目も当てられなかった。言っていることは単純で、腹が座って居る様子もなく、無残なほど存在感というものが無い。

 古今亭志ん生なんぞは座っているだけでおかしかったと言う。確かに東郷青児師位になると、半端な俳優なんか及びもつかない存在感があった。鴨居玲氏も画家としての存在感は強烈に感じられたものである。私が学んだ先生方もひとりひとり実に味があり誠実で独特の雰囲気を持っておられた。どこが違うのかと考えてみる。先達には芸術に対する情熱と尊厳、そして誇りをしっかりと持っておられたということではないか。今は特に芸術家としての「誇り」の部分が、グラグラ揺らいでいるようだ。時代と言ってしまえばそれまでだが、寂しい限りである。まず、生活人としての自分がいて家族があり、その上にちょこっと画家としての自分をのっけて、ぼくはちょっと他の人とはちゃうんよ、とつまらぬ受賞歴や肩書きで飾り立てる。

 絵描きの本物になるには、どこかで人生をほうり投げていなければならない。しかも、絵に向かってはとことん誠実でなければならないし、一定の才能、技術の習得など欠かせない要素が必要だ。それでいてしっかり人間としての自分を見据え、愛するものをたっぷり持って、それを作品として体外に排出する。その上飯も食っていかなきゃならん。まさに「離れ業」の世界である。

 そんなことをいちいち説明しなきゃならん昨今、この誇り高い「画家」という看板を外部に向けて掲げるのは、じつに煩わしく虚しい。「何してはるんですか?」に対しては「子供に勉強教えたり、絵描いたりしてます」で十分である。

NOV.2008

岩崎 雄造