タカノ卯港の折々のこと


洲之内徹の風景U

 ・・・初夏。姫路で「たった一人のきまぐれ美術館展」をした。没後20年。新たに刊行物が発売されている。洲之内徹の最後の画家として、その内74才の師より歳上になる日も来る。
 86年に現代画廊での個展。銀座6丁目の松屋の裏手。怖い手動のエレベーターのビル。ギャラリーが他に二、三軒。6Fでの個展中師を囲んで集まりが2回。常住の3Fで。一回目は楽しい集まり。次が大変なものに。今も活躍中の画家が文句を言い出した。なぜ絵を見に来なくなったのかを詰問。彼は「君の絵は観なくても判る」とカラーを見ながら言った。平行線の会話で、ヨダレ糸が画家の酔った口から一筋。残念なひとつの別れ。私にとっても師との別れ。将校らしくさっと背筋を伸ばして立って「今日はこれで」と・・・。貴重な時を、と悔いになった。最後の面影。何も聞けずに・・・。
 対立すれば画商と評論家を兼ねるその力は、画家にとって死活問題に。それは今の時代も昔も同じ。彼は文筆家でもあり、ある点ではモチーフで画家を見ている。
 あの日、芸術の事だけではないと、画家は階下の外気にふれる前に別のことをつぶやいて皆と別れた。さもありなんか?
 ともかく遠い日のこと。女にも男にも持てた洲之内さんだった。一回目の時、みずから「泊まるところが無ければ」と言って、6Fのギャラリーを提供。嬉しくなった。天井の観音開きの物入れが開いていて無造作に絵が積まれていた。しかも1点は床に落下している。拾うこともできず眠った。名品達があんな状態でと思いながら・・・。
 翌年カリスマ評論家は脳腫瘍で去った。私には優しい人なつっこい笑顔が残った・・・。その後、山本芳樹(美術研究家)から島田誠(ギャラリー島田)そして元町画廊の佐藤廉とバトンが繋がった。他に旧職場の人、コレクターと・・・。絵を続けられたのは人々のお陰。一人のアーティストを育てるのは、お金や便宜をその作家に与える無償の行為、作品以外では何も返せない。価値の定まりへの戦いは続く・・・・・。

 一回目の集まりは、「洲之内徹の風景」(紀伊国屋書店刊)の本に載った。たった2回だけの彼の思い出・・・。

 (敬称略)

タカノ 卯港