悲しい色やね 生地さんという画家 |
「悲しみ」によって浄化されるこころがある。美の中に澄み切った悲しさを感じさせるものがある。音楽や絵とも、そんなふうに出会いたい。勿論、自分の絵もそこまで表現できたら、と常々願っている。 ひさしぶりに御堂筋を、何という目的もなく歩いていた。秋の深まりの夕刻。小さな間口の店のウインドーに掛かった水彩画に、目が止まった。平凡な手法を使った普通の表現、しかしその画面の中で、いじらしく大阪の街、街の家並み、窓々、看板、電線、それらがこの街の「音」を確かな旋律で奏でている。薄塗りの褐色から灰色そして控え目な青までの階調は、表現や装飾のためではなく、作者の心を満たし続けてきた「体液」そのものの色合いだ。初対面でありながら、何年も見慣れた絵のように感じた。店主のA氏が気さくに私の質問に答えて頂き、間接的に生地氏を知ることになる。数年前に他界されていることを伺った。ウインドーの小品を一つ分けてもらい持ち帰った。以来、乱雑でむさくるしい私室の一隅に、心地好い「息づき」を感じている。 その後すぐ、幸運なことにご厚意を得、奥様とお会いし、お話を伺うことができた。同時に予想以上に多く残された氏の作品も見せて頂いた。
画家は自分の感性を守るために一種の「防波堤」を巡らし、ともするとその中で居直ってしまう。しかし、この作家にはそれが無い。生きていくしがらみの「波」がひたひたと打ち寄せる。足元の乾く暇が無かったことだろう。絵を描く者の特権意識や甘えや優越感は氏の作品には見受けられない。むしろ真摯に生活する精神の均衡、あるいは奥深い一種の緊張感が氏の制作の源であり、その作品に節度あるリアリティーを与えている。 氏は主に、見慣れた市街を描き続けた。別に職業を持ち、それにも誠意と誇りをもって生きてきた氏にしてみれば、たとえ際限なく自由な絵の世界と言え、どこまでも無謀に翔んでいくことは、本意ではなかったのだろう。精神的にも物理的にもすぐに職場に戻れる範囲、それは中之島であったり、私鉄の沿線であったり、日々普通に呼吸し目に親しむ眺めである。音や匂いが体にしみついた風景である。 また、氏は山をこよなく愛した。平凡な庶民の感覚に溢れる街並みと、山岳風景・・・一見対極をなす二つの要素が、どのように氏の中で均衡を保っていたのか。登山について、氏は多くの記述を残しているが、その文章はごく客観的で冷静である。よくある単純な「山賛歌」ではない。見事に「記録」に徹したものだ。そびえ立つ霊峰にも、通天閣の見える電車通りにも、氏は同じ眼差しを向けていたとしか、思えない。敢えて言えば、かたよりのない「子供の眼差し」に近いのだ。 家庭、仕事、登山、絵画制作、それらが「同じ平面上」で領域を分かち、互いに複雑にバランスをとり、ときには精神をある種の緊張感で染めたにちがいない。ただし、氏の最も内奥からの情感が向うところは、やはり40センチ四方に満たない水彩紙の空白であったはずだ。ただ、その空白は氏の人生全体を受け止めるには小さすぎたのか、あるいは自身の自制心がそこからの解放を潔しとしなかったのか。氏は絵画を愛しはしたが、結局それに身を任すことはなかった。しかし、思いを越えてその作品には、氏の人柄、情感、思想、あらゆる人間的要素が見事に露われている。 晩年次第に表現力を増し、さらにこれから第一段階の円熟をも迎えようかというところで、急逝された。一定の師を持たず、ライバルも持たず、比較的遅くから描き始め、自身の生活スタイルを、事業を、ご家庭を守りながら、つまらぬ野心に振り回されることなく、淡々と歩み続ける。画家としては、かなり孤独な歩みである。そしてついに、ひたひたと背後から迫ってきた醜く凶暴な「現実」の彼が追いつき、あまりにもあっけなく氏を飲み込んでしまった。御自身、意識されていたかどうかにかかわらず、氏の温かな作品群を成立させていた「潔さ」が、人生の幕引きをも演じてしまった。芸術はかくも残酷で美しい逆説をさらして、なおかつ人を魅了するのか。運命をやや恨みつつ、もし氏によき師、よきライバルが現れていたら・・・と仮想せずにはいられない。人生は、常に少しいじわるであり続けるようだ。 あらためて氏の作品を見ている。饒舌の一歩手前でとどまっている画面から懐かしい「大阪の音」が聞こえる。そして、街の呼吸、人の生きる温度、それらを包み込み、やがてにじんで溶け込んで行く色。あまりにもあたりまえの風景が、控え目な喜びと、そのために優しくなれる「生きる悲しさ」を湛えている。・・・この愛すべき作品は、世の中をはすかいから眺め、平凡であることを嫌悪しつつもアクロバットのようにしか生きられない、自称・芸術家の描いたものではない。襟を正し、努力を重ね、見えるものをありのまま終始愛された、そんな一人の紳士が描かれたのだ。・・・と思うと、人の歩みの尊さと可能性に、爽やかに勇気づけられる。 2002年、師走 洋画家 ユーゴ・サキ |