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吹雪の夜に2009.06.06
(司馬遼太郎風に言うなら)昭和二十三年正月の風景である。
夜。ひどく吹雪いている。ほとんど視界が利かなくなってきた。若狭のこの時期、雪は深い。元旦から次第に吹雪いて、ニ日の夜、この時間に堤を歩く者は、 ほとんどいない。男は黒い厚手のオーバーコートに、フェルトの帽子。土地の人間ではない。背には大きな帆布のリュック、両手に提げ荷を持ち、前のめりにほ とんど判別がつかなくなった道らしきところを進んでいる。駅から1時間は歩かなければならない。先程から何度も堤の傾斜をすべり落ちて、コートの裾は雪の 粉で真白になっている。ただ歩様は力強い。待つ者達への責任と一刻も早く顔を見たいという一念が、男の背中を大きく見せている。
男は今朝大阪を出た。年末まで奔走が続き晦日に家族の寄宿を訪ねることはできなかった。戦後の混乱と復興に湧き返るような大阪での日々は、男にとって厳 しいものであった。空襲で焼け落ちた自宅と工場の土地を維持する気力がなかった。二束三文で売り払って、当座の生活資金とし、その間に工員としてどこかへ 就職する算段でいる。土地代金の一部が入るのを待って郷里の小浜の親戚の納屋に身を寄せる妻と5人の子供達にほどほどのみやげを買い揃えるのに晦日一杯を 費やした。
背中のリュックの重みは家族の喜びの重みであった。両手は家族の希望を受け止めるかのように提げ荷でふさがっていた。息も切れ切れにようやく集落らしき ものが見えてきた。小浜海岸から一理種川沿いに上った寒村である。堤から見下ろす家々の灯は吹雪の向こうにまばらにかすかに見える。ようやくその納屋が視 界に入る。もどかしくたまらなく男は堤の斜面を滑り降りる。もうコート全体といわずリュックも提げ荷も顔までも雪まみれである。ひとりでに満面笑みがあふ れる。納屋の重い引き戸の前に立つと、中には何かの気配を感じたらしい子供達の敏捷な動きが聞こえてきた。男はもう一度ニヤリと笑い勢いよく戸を開けた。
この後にくり広げられる団欒の場面は レモン色とオレンジ色に彩られ、家族全員はそれまでの重苦しい現実から宙を舞うような恍惚たる至福の世界へ、しば し・・・。一歳に満たない私はそこでは母の腕の中で、一体何が起こったものかと、眼をキョロキョロさせていたことであろう。岩﨑家の新しいスタートの貴重 なシーンである。
その後ほどなく七人の家族は大阪へ戻る。七人の大家族は狭い家の中で貧しい生活を送り、常にお金が元のいざこざが絶えなかった。女一人男四人の兄弟が成 長していくとそれぞれ自分なりの生活を作っていった。それこそ五人五様で、バラバラと家から離散していった。残された老夫婦は時とともに会話もなくなっ た。父親が事故に遭ってから、夫婦仲はそれなりのものに戻ったが、兄弟の間の反目が決定的に家族を分解してしまう。
どう考えても小浜のあの吹雪の夜以上の「幸福感」は以後、その家族には訪れなかった。最も苦しい時に、最も幸福な時間があったとは皮肉なものである。極 端に言えば、あの吹雪の夜が全てだった。あの夜の思い出さえ心に収まっていれば、岩﨑家の一員であった意味がある。ただし私は何も記憶していない。父と母 が時折語っていた話から自分で作り上げたイメージである。しかしとても大事なイメージと思っている。無意識のうちに私を支えつづけてきたように思える。
人生は綿々と回顧するには長すぎる。いくつかのエポックは一つのシーンに集約されていくのではないだろうか。それは現実のそのものから心の中で「絵画 化」されてしっかりと収まっていくようだ。出会った人々の印象も同様で、大切な人は心のシャッターでとらえた一枚の写真となって「アルバム」に残ってい る。四十才で夭逝した刎頸の友は、環状線の車内のいちばんはじの席でトレンチコートをはだけてこちらをみつめ、ニヤッと人なつっこく笑っている姿でよみが える。母は小太りのエプロン姿で買物かごを提げ、ゆらゆら歩く姿で表われる。父は空元気の人だったが、本質的に脆弱な性格だった。「長男のおとんぼ」の典 型的な人だった。しかし、私の心には、あの吹雪の夜ぐいぐいと雪だらけになって歩む雄々しい「背中」として収まっている。それで十分である。