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クラゲの自由2009.08.20
自由は基本ですな。自由があるからこそ、抑制や様式に意味が出てくる。むしろ、そのために「自由」があると言った方がいい。自由だけが存在するとなれば、人間はクラゲのように気楽に漂っているだけです。
「自分を自由に表現したらいいのよ」なんて、よく耳にする甘い言葉のひとつですね。自分を表現するとは自分の内を晒すことですね。これって、基本的に「下品」な行為です。「見せて」って言われもしないのに、自分の内を見せること自体「悪趣味」なことです。だから、古人は「芸」という縛りを考え出したんでしょう。約束事や様式というものを設けて自分の内なるものがそのまま露骨に現われないように細心の注意を払うわけです。そのまま表出されない、ひとつの形式をとおして提示される。一見辛気臭いようですが、むしろ「内なるもの」は明確さ、鮮やかさを増す。いい「芸」とはそのようなものでしょう。
自由を絶対的に前面に押し出すと、自我が直接表に出て来がちですね。なまの自我は決して美しくはない。
第一にそこに気付くデリカシーが、表現者本人に必要なわけです。それがなければ、「趣味」か「若気の至り」の世界です。バルチェスなんぞ、「個性というものを捨てなさい」とまで言っている。これはすごいことですね。
個性しか頼りとしない昨今の画学生は、過去の巨匠を一顧だにせず、現代の売れっ子作家に、無意識のうちにも身をすり寄せていく。指導者もそれを奨励している節がある。「芸」というものが粉砕され、時代に迎合した「受け」がすべてとなる。それらを総称して「サブ・カルチャー」などと呼ぼうが、そこに表現されたものの深浅の度合いはじつにみすぼらしい。「クラゲの自由」を得たサブカルチャーの闘士達は、メディアという化け物の力を借りて都市の上空を浮遊していく。現代の景色がそこにある。それがいいか悪いかなど、言ってもしようがない。
「恥」というものが無くなりましたね。人や周囲に対する恥なんぞはどうでもいい。自分に向った恥は実に貴重なものです。夥しい生命を喰らって肥え太り、何ひとつまともなことができていない自分を見つめた場合、そこに大いなる「恥」がある。おめおめと生きているという感覚は前世代の人達までは、だれにでもあった感覚ではないだろうか。そこから「無私」や「美意識」が生まれていたように思う。民主主義が人権を唱えたと同時に、人々はかくみすぼらしい自分を、どうしても主人公におかざるを得なくなった。自分で自分の人生を造らざるを得ない。当然、「居直り」モードが発生する。なんとかしなくては、などと悩むこと自体、経済効果ゼロの言葉であって見栄も悪い。「健康で長生き」が最大公約数の如きスローガンとなる。見るからに健康そうだが、その顔に何の恥もなく、その装いに何の美的意識もない高齢者達が、街に溢れる。彼等の殆どは自らにしか興味がない。リタイアは「責任からの開放」と考えている。むしろより重要な責任が課されていることに気付かない。老人は若い人への「教科書」である。身をもって晒すこと。人間の美も醜も、人生の虚も実も、その姿に消し去ることができない形で表われているのである。「どう死んでいくか」をしっかりと演じる仕事が残っている。美も醜もわしには関係ない。残りの日々、できるだけ楽しく生きにゃ・・・と、恥知らずの顔で闊歩する。大量のクラゲの発生である。後に続く世代の「喘ぎ」も聞こえず、何を残すのでもない。クラゲの自由を謳歌し、都市の上空をこれ又浮遊する。